宇治上神社は、京都府宇治市にある神社。世界文化遺産「古都京都の文化財」の構成要素。菟道稚郎子命(うじのわきのいらつこのみこと)・応神天皇・仁徳天皇を祀る。宇治神社と対をなす。
創建年代などの起源は、はっきりしていない。すぐ近くに宇治神社があり、明治維新前は両方を合わせて宇治離宮明神、八幡社と呼ばれ、宇治神社を下社・若宮とするのに対して、宇治上神社は上社・本宮と呼ばれている。「延喜式神名帳」には「山城国宇治郡
宇治神社二座」とあり、それぞれ宇治神社・宇治上神社を指している。近くに平等院ができると、その鎮守社とされた。
2004年2月、奈良文化財研究所・宇治市などの年輪年代測定調査によれば、本殿は1060年ごろのものとされ、現存最古の神社建築であることが裏付けられるとともに、1052年創建の平等院との深い関連性が考えられる。
境内
現存最古とされる平安時代後期の本殿が残っている(外から見えるのは覆屋で、中に本殿が3つ並んでいる)。拝殿は鎌倉時代前期の宇治離宮を移築したものといわれ、寝殿造の趣きを伝えている。境内にある湧き水は桐原水と呼ばれ、宇治七名水の一つとされている。
三室戸寺は、京都府宇治市にある寺院。山号は明星山。本尊は千手観音。西国三十三箇所第10番札所。本山修験宗の別格本山。
寺伝によれば、宝亀元年(770年)光仁天皇の勅願により、南都大安寺の僧行表が創建したものという。創建と本尊に関しては、次のような伝承がある。天智天皇の孫にあたる白壁王(後の光仁天皇)は、毎夜宮中に達する金色の霊光の正体を知りたいと願い、右少弁(右少史とも)藤原犬養なる者に命じて、その光の元を尋ねさせた。犬養が、その光を求めて宇治川の支流志津川の上流へたどり着くと、滝壺に身の丈二丈ばかりの千手観音像を見た。犬養が滝壺へ飛び込むと1枚の蓮弁(ハスの花びら)が流れてきて、それが一尺二寸の二臂の観音像に変じたという。光仁天皇がその観音像を安置し、行表を開山として創建したのが当寺の起こりで、当初は御室戸寺と称したという。その後、桓武天皇が二丈の観音像を造立、その胎内に先の一尺二寸の観音像を納めたという。
平安時代以後
以上のように、当寺の創建伝承については伝説的色彩が濃く、創建の正確な事情については、はっきりしない。園城寺(三井寺)の僧の伝記を集成した『寺門高僧記』所収の僧・行尊の三十三所巡礼記は、西国三十三所巡礼に関する最古の史料であるが、これによると11世紀末頃に行尊が三十三所を巡礼した時は、三室戸寺は三十三番目、つまり最後の巡礼地であった。寺は康和年間(1099 - 1103年)、三井寺の僧隆明によって中興されたという。
その後、寛正年間(1460 -
1466年)の火災で伽藍を失い、再興されたものの、天正元年(1573年)には織田信長と争った足利義昭に加勢したため、焼き討ちされる。
現存する本堂は、江戸時代後期の文化11年(1814年)に再建された。
本尊
本尊は千手観音像であるが、厳重な秘仏で写真も公表されていない。本尊厨子の前に立つ「お前立ち」像は飛鳥様式の二臂の観音像で、二臂でありながら「千手観音」と称されている。この本尊像に関わる伝承は「歴史」の項で述べたとおりで、高さ二丈の観音像は寛正年間(1460 - 1466年)の火災で失われたが、胎内に納められていた一尺二寸の二臂の観音像は無事であったという。
2008年が西国巡礼の中興者とされる花山法皇の一千年忌にあたることから、2008年から2010年にかけて、西国三十三所の全札所寺院にて札所本尊の「結縁開帳」が行われることとなった。三室戸寺本尊の千手観音像は、2009年10月1日 - 11月30日に開扉されることになったが、これは前回開扉(1925年)以来84年ぶりの公開である。
境内
文化11年(1814年)に再建された重層入母屋造の重厚な建物で、秘仏の千手観音立像が安置されている。
三重塔
元禄17年(1704年)建立の全高16メートルの三重塔で、もとは兵庫県佐用郡三日月村(現・佐用町)の高蔵寺にあったものを、明治43年(1910年)に当寺が買い取って参道西方の丘上に移設。その後、境内の現所在地(鐘楼の東隣)に移された。
庭園
5000坪の広さがあり、枯山水・池泉・広庭からなる。5月は2万株のツツジ、一千本のシャクナゲ、6月は1万株のアジサイ、7月はハス、さらに秋は紅葉の名所にもなる。庭園を整備したのは、近年のことである。
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