2004/05/24

木曽街道(中三宿&下四宿)

福島宿は、中山道37番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は長野県木曾郡木曽町福島。関所は、宿場の北入口にあった。

 

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、福島宿の宿内家数は158軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠14軒で宿内人口は972人であった。

観光文化会館や用水のある上の段地区(江戸小路エリア)は唯一、福島宿の面影を残した地区である。

山村代官屋敷
山村代官屋敷は、木曽代官・福島関所関守を務めた山村氏の屋敷の建物・庭園等の一部を整備したもの。木曾義昌の城館跡地に造営された。隣接する福島小学校も、山村氏の屋敷の跡地である。

木曽の桟
険しい崖に橋をかけて通路を開いた桟道で、かつては交通の難所だった。対岸には正岡子規、松尾芭蕉の碑がある。

上松宿(あげまつじゅく)は中山道38番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は長野県木曽郡上松町。十王橋から上町、本町、仲町、下町。古い町並みが残るのは上町。

 

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、上松宿の宿内家数は362軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠35軒で宿内人口は2,482人であった。


寝覚の床
国の名勝。木曽川が花崗岩の岩盤を浸食してできた。浦島太郎の伝説が残る。

須原宿は中山道39番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は長野県木曽郡大桑村。

須原宿の町並み
木曽川の氾濫で流失し、享保2年(1717年)に現在地へ移転した。


 
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、須原宿の宿内家数は104軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠24軒で宿内人口は478人であった。

定勝寺
本堂・庫裡・山門が、国の重要文化財に指定されている。庭園も見所。

岩出観音
京都の清水寺を思わせる懸崖造りの堂が印象的。

野尻宿は中山道40番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は長野県木曽郡大桑村。寛政3年(1791年)に大火に遭っている。宿場通りの長さは奈良井宿に次いでおり、「七曲り」と呼ばれ町筋が曲がりくねっているのが特徴。

 

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、野尻宿の宿内家数は108軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠19軒で宿内人口は986人であった。

野尻宿から三留野宿への経路は、木曽川沿いの「羅天の桟」を通る道と、危険な桟道を避けて山中を抜ける「与川道」の2本がある。

三留野宿(みどのじゅく)は中山道41番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は長野県木曽郡南木曽町。南木曽駅の北が当時の宿場町の中心だが、1881年(明治15年)の大火で多くの建物が焼失したことに加え、鉄道が開通したため現在の町の賑わいは駅周辺に移っている。

 

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、三留野宿の宿内家数は77軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠32軒で宿内人口は594人であった。

妻籠宿(つまごじゅく)は、中山道42番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は長野県木曽郡南木曽町。蘭川(あららぎがわ)東岸に位置する。

現代においては、隣接する馬籠宿(旧山口村_(長野県)、現在は岐阜県中津川市)と、馬籠峠を越える旧中山道史蹟と合わせて木曽路を代表する観光名所として、外国人を含めて訪れる旅行者が多い。

 

妻籠宿は、中山道と飯田街道の追分に位置する交通の要衝であった。天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、妻籠宿の宿内家数は31軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠31軒で宿内人口は418人であった。

1960年代に深刻となった長野県の過疎問題の対策として、開発事業としての保存事業が基本方針となった。1968年から1970年にかけて、明治百年記念事業の一環として寺下地区の26戸が解体修復された。その後、観光客が増え始めたことから、観光関連施設の整備が行われるようになり、保存事業を制度面から後押しするために、1973年に当時としては例の少ない、町独自の町並み保存条例である『妻籠宿保存条例』が制定された(1976年に『妻籠宿保存地区保存条例』へ改正)。

経済成長に伴い全国の伝統的な町並みが姿を消してゆく中、いち早く地域を挙げて景観保全活動に取り組んだことが評価され、1976年、国の重要伝統的建造物群保存地区の最初の選定地の一つに選ばれた。他の保存地区と異なり、周辺の農地など宿場を支えた環境全体を保存するため、国有林を含めた広範囲が指定されている。

馬籠宿(まごめじゅく)は、中山道43番目の宿場(→中山道六十九次)で、木曽11宿の一番南の宿場町である。

かつては長野県木曽郡山口村に属したが、2005年(平成17年)2月の山口村の越県合併により岐阜県中津川市に編入された。1895年(明治28年)と1915年(大正4年)の火災により、古い町並みは石畳と枡形以外はすべて消失したが、その後復元され現在の姿となった。

石畳の敷かれた坂に沿う宿場で、馬籠峠を越えた信州側の妻籠宿(長野県木曽郡)とともに人気があり、多くの観光客が訪れる。石畳の両側にお土産物屋がならび、商いをしていない一般の家でも当時の屋号を表札のほかにかけるなど、史蹟の保全と現在の生活とを共存させている。ほぼ中間地点に、旧本陣であった藤村記念館(島崎藤村生家跡)がある。

 

天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、馬籠宿の宿内家数は69軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠18軒で宿内人口は717人であった。

馬籠は源義仲(木曽義仲)の異母妹・菊女が源頼朝から賜ったもので「美濃州遠山庄馬籠村」(1215年)といい、長享元年(1487年)頃になると木曽馬籠や恵那郡馬籠といったりするようになるが、妻籠までが信州木曽谷で、馬籠は美濃に属した。
出典 Wikipedia

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