木曽街道とは、京と江戸を美濃国および信濃国を経て結んでいた山道の俗称である。古代から中世の吉蘇路、江戸時代の中山道(木曽路)のこと。当時は木曾街道と書いた。狭義には、中山道のうち、美濃国と信濃国の境界部に当たる木曽地方の一部区間を指した。
贄川宿・奈良井宿・薮原宿・宮ノ越宿の上四宿、福島宿・上松宿・須原宿の中三宿、野尻宿・三留野宿・妻籠宿・馬籠宿の下四宿からなる11の宿場が設置された。
『日本鹿子』第八に『京より江戸まで木曾街道を行』とあるほか、『皇都午睡』三編中にも『板橋宿は、中仙道木曾街道の咽首なれど』とある。また、明治新政府が編纂した古事類苑地部では『木曾街道』の項を設け、主に木曽路(木曾路)について説明している。
『橘庵漫筆』二では、木曾街道は、かつては今のように人馬の通行は殆ど無く、昔は山姥に遭遇するなど通行困難な路であり、善光寺を詣でるにも、木曾街道を行けば百里で済むところ、命の方が大事と二百里もある北陸道を経る場合も多かったことや、かの平家でさえ京より関東に出るのに北陸道を用いたことを書いており、木曽路がたいへんに険しい道であったことを述べている。
1. 贄川宿(にえかわじゅく)
中山道33番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は長野県塩尻市。古くは温泉があって「熱川」と書かれた。温泉が枯れてからは、現在の漢字を当てるようになった。宿の創設は天文年間。木曽路最初の宿場で、北の入口に関所があり、福島関所の補助的役割をはたした。
贄川関所・木曽考古館
復元された番所に、関所関連の資料を展示する。階下は考古館で、縄文時代の土器・石器を展示する。
深澤家住宅
蔵2棟を含む建造物3棟と宅地が、国の重要文化財に指定されている。深澤家は加納屋を屋号とする贄川屈指の商家で、主屋は嘉永7年(1854年)、北蔵は文政4年(1821年)、南蔵は文久2年(1862年)に建築されたものである。主屋は切妻造、平入り、2階建、鉄板葺きで、桁行(間口)10.6メートル、梁間(奥行)17.3メートルと、奥行きの長い建物である。内部は縦2列に8室を配する間取りで、下手(向かって右)に通り土間を設ける。2階は表側と裏手に各1室を設ける。当住宅は建築年代が明らかであり、蔵も含めた屋敷構えがよく残され、江戸時代末期の宿場の町家の状況を伝える建物として貴重である。
贄川のトチノキ
長野県天然記念物。樹齢600年以上と推定されている。
武田信玄 - 木曾義康を討った時、平沢の諏訪神社を本陣としたという。
2.奈良井宿
中山道34番目の宿場(→中山道六十九次)。現在の長野県塩尻市奈良井に位置する。塩尻市(旧楢川村)の奈良井川上流に位置する、標高900m台の河岸段丘下位面に発達した集落である。
木曽路十一宿の江戸側から2番目で、11宿の中では最も標高が高い。難所の鳥居峠を控え、多くの旅人で栄えた宿場町は「奈良井千軒」といわれた。江戸寄りから下町、中町、上町に分かれ、中町と上町の間に鍵の手がある。水場は、山側に6ヶ所ある。現在は重要伝統的建造物群保存地区として、当時の町並みが保存されている。また、江戸時代から曲げ物、櫛、漆器などの木工業が盛んで、旅の土産物として人気があった。
山あいに寺社を擁し、宿場、レストラン、土産物店など、観光できる街並みに整備されている。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、奈良井宿の宿内家数は409軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠5軒で宿内人口は2,155人であった。
宿場の景観と建造物
電柱・自動販売機を移設し公共建築物(奈良井郵便局・消防詰所・奈良井会館等)も景観に合わせた建築にする等は景観整備の一般的な手法であるが、旧楢川村は上町・中町・下町に各2ヶ所ずつの水場を村単独事業で整備することで独自性を演出した。また、切妻平入の屋根は3/10勾配(いわゆる3寸勾配=16.7度)の長尺鉄板葺で、濃茶色を使用することが条例で規定されている。日本瓦を使用した場合には、4/10以上の勾配(4寸勾配=21.8度)が建築基準法の規制から必要になってしまうため、伝統的な緩勾配の屋根形状に合わせる目的で長尺鉄板葺が指定されている。この緩勾配と出梁造(だしばりづくり)のため屋根表面は幅員5 - 8mほどの通りからは覗きにくい構造になっており、平屋などで万一見えたとしても艶消濃茶色のため、ほとんど目立たない。木曾谷の伝統的な板葺石置屋根(水場等で一部再現されている)では耐久性がないため、屋根を隠すことで伝統的な景観と家屋の耐久性の両立を図っている。また、雨樋についても茶系色のものを使用し、水平部分は鼻隠板で覆っている。


3.藪原宿
中山道35番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は長野県木曽郡木祖村。
お六櫛が特産品。宿場北部の中山道は鉄道で寸断されている。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、藪原宿の宿内家数は266軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠10軒で宿内人口は1,493人であった。
妻籠宿のお六という老婆が藪原宿で始めた「お六櫛屋」は物のよい櫛を売る店として評判だった
(お六櫛は薮原で生産し続けられており、長野県知事指定の伝統工芸品になっている)。
4.宮ノ越宿
中山道36番目の宿場(→中山道六十九次)で、現在は長野県木曽郡木曽町日義。宿場関連の史跡よりも、木曾義仲関連の史跡が多い。かつては木曽川の水を使った用水が宿場内を流れていた。
天保14年(1843年)の『中山道宿村大概帳』によれば、宮ノ越宿の宿内家数は137軒、うち本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠21軒で宿内人口は585人であった。
巴が渕
木曽川が巴状に渦巻く渕であったことから、この名がある。巴御前が、ここで水浴をしたという伝説が残る。
旗挙八幡宮
木曾義仲旗挙の地。境内の欅は樹齢800年という。
義仲館(よしなかやかた)
木曾義仲の生涯を人形や絵画を使って紹介する。入口に義仲・巴御前の銅像が建つ。
後膳水
江戸末期~昭和初期の井戸で、明治天皇にこの水でお茶を献上したため、この名がある。
出典 Wikipedia
出典 Wikipedia
0 件のコメント:
コメントを投稿