日暮里と書いて「にっぽり」は、土地に馴染みのある人でなければ読めない地名でしょう。そもそもの語源は「新堀」から来たものだという事です。こんなおもしろい話があります。
●日暮里とナポリ
インド語に「プル」という「町」を意味する語(例:クアラルンプール=Kuala Lumpurのプル=pur)があり、これがヨーロッパに伝わり「ポリス(都市)」という語になったそうです。「プル(pur)」は日本にも伝わり、日本では「堀(町)」という語になります。
ナポリの旧称である「ネアポリス」は「新しい街」という意味です。一方、日暮里の語源は、これも「新しい町」を意味する「新堀(にいほり)」だそうです。「ネアポリス」が転訛したものが「ナポリ」であるのと同様「新堀」の転訛が「日暮里」という事になります。つまり、どちらも元々は「新しい町」という意味の地名だったのです。
これはある大学における英語史の授業で、教授から訊いた小話だそうです。
他にも、以下のような諸説があります。
《荒川区にある日暮里は、その昔には新しく堀を設けて開墾した耕地を意味した新堀と書いていたが、風流人たちが「日が暮れるまで山を散策しても飽きない」という意味合いから日暮れの里、日暮里という字を当てたらしい。明治22年に、正式に改められている》
《日暮里は、そもそもは「新堀」と書き、その由来は太田道灌がこの周辺に敵を攻める際の斥候台を築かせ堀を掘ったために、新堀と言うようになったらしい。江戸中期になり、道灌山から眺める風景が当時の文人達に好まれ「日暮の里」と呼ばれるようになって、新堀の語呂から転じ日暮里としたらしい。明治22年(1889)に周辺の村を併せ日暮里村となり、町制施行後昭和7年(1932)の荒川区西日暮里成立の際、日暮里町として町名になった。昭和41年(1966)、住居表示により東西を分けた》
《また聞くところでは、夕焼けを見ながら家路につくところという意味で「ひぐれさと」とも言うらしい・・・》
「にっぽり」という地名は、すでに中世においてその存在が明らかで、文安五年(1448)の熊野那智文書『熊野領豊島年貢目録』に「三百文にっぽり妙円」とある。また『小田原衆所領役帳』では、遠山弥九郎の所領役高に「四拾五貫文江戸新堀」が記載されている。
1.新治、新墾で「開墾地」のことだと『武蔵国志』はいう。これは江戸川区新堀(しんぼり)と同じ説だ。
2.谷中の西北を新堀といい、太田道灌の出城跡だと『紫の一本』はいう。
3.後北条氏の家臣遠山孫九郎が居館を築いて、新しく濠を掘った(『新編武蔵風土記』)という説
4.「いや掘ったのは関道灌だ」などの諸説がある。江戸時代中頃(享保年間)から、道灌山よりの眺望が評判となった。
青い田の露をさやかな一人酒(小林一茶)
眼下の新堀村はもとより日光連山・筑波山・下総国府台(こうのだい)が一望の景勝地、日が暮れるまで見ても見飽きぬことから「日暮らしの里」と呼ばれるようになった。
青い田の露をさやかな一人酒(小林一茶)
眼下の新堀村はもとより日光連山・筑波山・下総国府台(こうのだい)が一望の景勝地、日が暮れるまで見ても見飽きぬことから「日暮らしの里」と呼ばれるようになった。
桃桜 鯛より酒の肴には見所多き日暮らしの里(十返舎一九)
●ポリネシア語による解釈
《日暮里はもと新堀村で、江戸期に道潅山から諏訪台一帯(現在JR西日暮里駅の西の台地)が「文人雅客の風景を探るもの多く」、「日暮しの里」として江戸の名所となり、日暮里村となったといいます。この「にいぼり、にっぽり」、「どうかん」は、マオリ語の「ニヒ・ポリ」、NIHI-PORI(nihi=steep;pori=wrinkled as of the skin with fat)、「嶮しい(皮膚がたるんだ)皺(のような崖のある土地)」(「ニヒ」のH音が脱落してが「ニイ」になり、「ニイ・ポリ」が「ニッポリ」となっ
た)
「タウ・カネ」、TAU-KANE(tau=alight,settle down,beautiful;kane=head)、「美しい頭のような(山)」(「タウ」のAU音がOU音に変化し、濁音化して「ドウ」となつた)
の転訛と解します》
出典:http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
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