彦根城は、日本の滋賀県彦根市金亀町にあった城である。江戸時代および明治2年(1869年)の版籍奉還後から、明治4年(1871年)廃藩置県まで彦根藩の役所が置かれた。
近世にあたる江戸時代に、滋賀県彦根市金亀町にある彦根山に、鎮西を担う井伊氏の拠点として置かれた平山城である。山は「金亀山」との異名を持つため、城は金亀城(こんきじょう)とも称される。多くの大老を輩出した譜代大名である井伊氏14代の居城であった。
明治初期の廃城令に伴う破却を免れ国宝の天守、附櫓(つけやぐら)および多聞櫓(たもんやぐら)のほか、安土桃山時代 - 江戸時代の櫓・門など5棟が現存し、国の重要文化財に指定されている。中でも馬屋は重要文化財指定物件として全国的に稀少であり、国の特別史跡に指定されている。一説では、大隈重信の上奏により、1878年(明治11年)に建物が保存されることとなったのだという。
日本で12箇所の安土桃山時代から江戸時代に建造された天守が現存する城郭の一つ(現存12天守)で、その内、国宝に指定された現存天守のある国宝四城の一つに数えられる。1992年(平成4年)に日本の世界遺産暫定リストにも記載されているが、世界遺産登録は大変厳しい状況にある。滋賀県下で唯一、城郭建築が保存された。
構造
城の形式は連郭式平山城。また、現存例の少ない倭城築城の技法である「登り石垣」が良好な形で保存されている。なお、城の北側には玄宮園・楽々園という大名庭園が配されており、これらは国指定の名勝である。
地理特性
湖と山の間、5kmほどの狭い平地に立地する彦根は、中山道と北陸道(俗に北国街道と称)が合流し、水陸から京に至る東国と西国の結節点であり、壬申の乱(672年)・姉川の戦い(1570年)・賤ヶ岳の戦い(1583年)・関ヶ原の戦い(1600年)等、古来、多くの合戦が、この地域で繰り広げられている。
戦略拠点としてその点に注目され、織田信長は佐和山城に丹羽長秀を入れ、ほど近い長浜城を羽柴秀吉に与えている。 また豊臣秀吉と徳川家康は、それぞれ譜代筆頭の石田三成と井伊直政を、この地に配置している。
建築
彦根城の建築物には、大津城からの天守を始め、佐和山城から佐和口多門櫓(非現存)と太鼓櫓門、小谷城から西ノ丸三重櫓、観音寺城からや、どこのものかは不明とされているが太鼓門、等の移築伝承が多くある。
建物や石材の移築転用はコスト削減と工期短縮のために行われたもので、名古屋城や岡山城や姫路城、福岡城など多くの城に同様の伝承が伝わっている。
時代劇の撮影などでも使われる天秤櫓は、長浜城から移築したといわれている。この天秤櫓は、堀切の上の掛橋を渡った突き当たりにあたる、長い多聞の左右の端に2重2階の一対の隅櫓を構え、あたかも天秤ばかりのような独特な形をしている。
通し柱を用いず、各階ごとに積み上げられた天守は、三層三階地下一階の複合式望楼型で「ごぼう積み」と云われる石垣で支えられ、二重目以上の窓はすべて華頭窓を配し、最上階には実用でない外廻り縁と高欄を付けている。各重に千鳥破風、切妻破風、唐破風、入母屋破風を詰め込んだように配置しており、変化に富む表情を見せる。
大津城天守(4重5階)を3重に縮小して移築したと言われ、昭和の天守解体理(1957年(昭和32年)- 1960年(昭和35年))の時に、天守の用材から転用されたものと見られる部材が確認されている。
江戸時代
徳川四天王の一人・井伊直政は、1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いの後、その軍功により18万石にて近江国北東部に封ぜられ、西軍指揮官・石田三成の居城であった佐和山城に入城した。
佐和山城は、石田三成が改築した後は「三成に過ぎたるもの・・・」の一つともいわれたが、直政は、中世的な古い縄張りや三成の居城であったことを嫌い、湖岸に近い磯山(現・米原市磯)に居城を移すことを計画していたが、関ヶ原の際の戦傷が癒えず、1602年(慶長7年)に死去した。
その後、直継が家督を継いだが、幼少であったため直政の遺臣が彼の遺志を継ぎ、再検討の末、1603年(慶長8年)琵琶湖に浮かぶ彦根山(金亀山、現在の彦根城の場所)に彦根城の築城を開始した。
築城には公儀御奉行3名が付けられ、尾張藩や越前藩など7か国12大名(15大名とも)が手伝いを命じられる天下普請であった。1606年(慶長11年)2期までの工事が完了し、同年の天守完成と同じ頃に直継が入城した。1616年(元和2年)、彦根藩のみの手により第3期工事が開始された。この時に御殿が建造され、1622年(元和8年)すべての工事が完了し、彦根城が完成した。
その後、井伊氏は加増を重ね、最終的に1633年(寛永10年)には譜代最高となる35万石を得るに至った。なお、筆頭家老・木俣家は1万石を領しているが、陣屋を持たなかったため、月20日は西の丸三重櫓で執務を行っていた。これは、徳川統治下の太平の世においては、城郭というものがすでに軍事施設としての役目を終えて、その存在理由が権勢の象徴物へと変じたためであり、徳川幕府の西国への重要な備えとしての役割を担う彦根城も、彦根藩の各組織の管轄で天守以下倉庫等として徳川時代の大半を過ごした。
1854年(安政元年)に天秤櫓の大修理が行われ、その際、石垣の半分が積み直された。
向かって右手が築城当初からの「ごぼう積み」、左手が新たに積み直された「落し積み」となっている。
幕末における幕府の大老を務めた井伊直弼は、藩主となるまでをこの城下で過ごしている。直弼が青春時代を過ごした屋敷は「埋木舎(うもれぎのや)」として現存している。
近現代
天守等7棟が1951年(昭和26年)に重要文化財に指定、うち2棟(天守、附櫓、および、多聞櫓)が1952年(昭和27年)に国宝に指定された。姫路城とともに遺構をよく遺している城郭で、1951年(昭和26年)6月9日に国の特別史跡に指定された。これは姫路城の指定よりも5年早い。
文学
井伊直弼が藩主の座に就くまでに先の藩主やその候補者の多くが夭折(ようせつ)していることから、神秘的な物語の舞台に採り上げられることが多い。
楽々園(らくらくえん)は、滋賀県彦根市にある歴史的建造物と庭園および遺構。国指定特別史跡「彦根城跡」の区域、および隣接する大名庭園の玄宮園とともに「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。江戸時代初期(1677年)に、彦根藩4代藩主井伊直興によって造営が開始された井伊家の下屋敷。
楽々園(らくらくえん)は、滋賀県彦根市にある歴史的建造物と庭園および遺構。国指定特別史跡「彦根城跡」の区域、および隣接する大名庭園の玄宮園とともに「玄宮楽々園」として国の名勝に指定されている。江戸時代初期(1677年)に、彦根藩4代藩主井伊直興によって造営が開始された井伊家の下屋敷。
「御書院」、「地震の間」、「楽々の間」、「雷の間」、「新東西の間」や「鳰の間」など、江戸時代後期の数奇屋建築が現存する。
江戸時代は「槻御殿」あるいは「黒門外御屋敷」と呼ばれており、明治時代以降に「樂々の間」から「楽々園」と呼ばれるようになったとされる。
御書院から望む庭園は玄宮園の池泉を借景とする枯山水である。戦前までは庭園と御書院の間に池が広がっていた。
出典 Wikipedia
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