2004/04/17

多賀大社(滋賀旅行part3)


多賀大社は、滋賀県犬上郡多賀町多賀に鎮座する神社である。伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれてきた。また、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。


 式内社で、旧社格は官幣大社。現在は神社本庁の別表神社である。
 
お多賀杓子」と称し、お守りとして杓子を授ける慣わしがある。 これは「お玉杓子」や「おたまじゃくし」の名の由来とされている。

和銅5年(西暦712年)編纂(へんさん)の『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」とあるのが、当社のことである。

なお『日本書紀』においては「構幽宮於淡路之洲」、すなわち「幽宮(かくれ-みや)を淡路の洲(くに)に構(つく)りて」との記述があり、淡路島に「幽宮」を構えたとされている。

『古事記』以前の時代については、一帯を支配していた豪族・犬上君の祖神を祀っていたのではないかとの説がある。犬上君(犬上氏)は、多賀社が属す多賀町を含む地域名「犬上郡」の名祖でもあり、第五回遣隋使・第一回遣唐大使で知られる犬上御田鍬(いぬかみの-みたすき)を輩出している古来の豪族である。

藤原忠平らによって、延長5年(927年)に編まれた『延喜式神名帳』では、当社は「近江国犬上郡 多何神社二座」と記載され、小社に列している。「二座」とあることから、この時代にはすでに伊邪那岐命・伊邪那美命2柱が祀られていたことが分かる。

なお、摂社(境内社)である日向神社は延喜式内社であり、瓊瓊杵尊を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。多賀胡宮とも呼ばれ多賀社の別宮として信仰を集める胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ-クニカツ-ナガサノ-ミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2キロメートルにある小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬される。

多賀大明神
室町時代中期の明応3年(1494年)には神仏習合が推し進められ、当社には神宮寺として不動院(天台宗)が建立された。神宮寺配下の坊人は全国にお札を配って信仰を広め、当社は中世から近世にかけて伊勢・熊野とともに庶民の参詣で大いに賑わった。

「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」
「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」

との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子である神話体系を歌詞に映したものである。なお、社に残る垂迹曼荼羅は坊人が神徳を説くのに用いたものであり、これを掲げて神徳を説きながら諸国を巡行し、拝礼させたと考えられる。 また、多賀社隆盛の理由としては、近江国が交通の結節点であったことも挙げるべきであろう。


長寿祈願
お多賀さんは、特に長寿祈願の神として信仰されてきた。
 
俊乗坊重源
鎌倉時代の初頭、東大寺再建を発念してはや20年にならんとする齢61の俊乗坊重源が、着工にあたり成就祈願のため伊勢神宮にて17日間の参籠(さんろう)を行ったところ、夢の中に天照大神が現れ、

「事業を成功させるために寿命を延ばしたいのなら、多賀神に祈願せよ」

と告げた。重源が取り急ぎ多賀社に参拝すると、眼の前にひとひらの柏の葉が舞い落ちてきた。見ればその葉は「」の字の形に虫食い跡の残るものであった。

」は「廿」と「延」に分けられ、「廿」は「二十」の意であるから、すなわちこれは「(寿命が)二十年延びる」と読み解ける。神の意を得て大いに歓喜し奮い立った重源は、以後さらに20年にわたる努力を続け、見事、東大寺の再建を成し遂げている。全てを終えた重源は報恩謝徳のため当社に赴き、そうして、境内の石に座り込むとそのまま眠るように亡くなったと伝えられる。今日、その石は「寿命石」の名で呼ばれ、変わる事なく境内にある。また、当社の神紋の一つ「虫くい折れ柏紋」の、これが由来となっている(今一つに三つ巴がある)。

豊臣秀吉
天正16年(1588年)には、日頃から多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、それが成就したとして社殿改修を行うとともに、大名に与えるに等しい1万石を寄進した。この秀吉との深い縁ゆえであろう、境内に正面にある石造りの太鼓橋(大僧正慈性により、寛永15年〈1638年〉造営)は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。

喪失と再建の江戸期
元和元年(1615年)には社殿が焼け落ちてしまったが、およそ18年後の寛永10年(1633年)、将軍・徳川家光の命による再建が始まり、5年後に完成を見た。明和3年(1766年)には、屋根の葺き替え等の大改修が成る。ところが、安永2年(1773年)にまたも焼失。天明2年(1782年)にも火災に遭った。暴風で再建社殿が倒壊したのは、寛政3年(1791年)の出来事である。このように江戸期の多賀社は災難続きであった。 しかし、その都度、彦根藩および幕府からの手厚い寄進・寄付が行われてきた。

明治以降
明治維新前後の動乱期、発布された神仏分離令を機に沸き上がった廃仏毀釈の大波は逃れるすべ無く、多賀社の神宮寺も槍玉に挙げられて一呑みにされる。 別当職不動院は明治元年(1868年)に復飾せられ、境内にある全ての神宮寺は払拭せられた。

多賀社は、同4年(1871年)に県社兼郷社、明治18年(1885年)に官幣中社となり、大正3年(1914年)に官幣大社に昇格した。 旧来の「多賀神社」から「多賀大社」に改称したのは、昭和22年(1947年)のことである。


近年の改修と造営
大正5年(1930年)、本殿を改修。大社造の本殿および他の建築物の屋根の檜皮葺の葺き替え、ならびに参集殿新築造営は、昭和41年(1966年)から行われ、同47年(1972年)に完成した。また、当社は平成14年(2002年)から「平成の大造営」に執りかかっており、平成17年(2005年)の時点で一部は竣工している。

元正帝の縁起
多賀社に独特のお守りとして古くから親しまれているお多賀杓子は、元正天皇の養老年中、帝が得られた病の平癒を祈念して多賀社の神官らが強飯(こわ-めし)を炊き、シデの木で作った杓子を添えて献上したところ、帝が全快せられたということから、霊験あらたかな無病長寿の縁起物として信仰を集めるようになったと伝えられるものである。元正天皇のころは、まだ精米技術が未発達で、米の飯はアルファ化して粘り気を持つ今様の物とは違い、硬くパラパラとこぼれるような物であったらしく、それをすくい取るためにお多賀杓子はお玉の部分が大きく窪んでいた。また、柄の部分は湾曲していたという。

現代のお多賀杓子はお玉の形をしていない物が多く、今様のアルファ化米に合わせて平板な物が大半となっているが、以前はそうではなく、後述の用語派生とさらなる発想の飛躍につながる、かなり特徴的な物であったとのことである。お守りとしてのこの杓子は、実用的な物があれば飾るための大きな物もある。

なお、帝の杓子の素となった木の枝であるが、これを地に差したところ根が生じ、やがて大木に育ったといい、多賀社より数キロメートル西にある「飯盛木(いもろ-ぎ)」がそれであると伝えられる。この飯盛木には、男飯盛木と女飯盛木の2本がある。
 
お多賀杓子・お玉杓子・おたまじゃくし
際立った形状的特徴を持つ「お多賀杓子」は、「お玉杓子」の語源になったと考えられている。カエルの幼生「おたまじゃくし」は「お玉杓子」から派生した名称なので、元を辿れば「おたまじゃくし」の語源もまた「お多賀杓子」ということになる。 後者のような言語的変化は、形状の相似による連想の結果である。



出典 Wikipedia

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