三井寺は、歴史上、たび重なる焼き討ちの被害に遭ったにも関わらず、仏像、仏画、文書など多くの文化財を伝えている。また、建造物や障壁画にも近世以降の優れたものが多い。
なお、建造物以外の文化財で、寺内で常時公開されているものは奈良時代の梵鐘(重文、通称弁慶引き摺り鐘)のみである。黄不動像をはじめ、大師堂の智証大師像2体(中尊大師、御骨大師)と木造黄不動立像、新羅善神堂の新羅明神像、観音堂の如意輪観音像、護法善神堂の鬼子母神像などはいずれも秘仏である。また、秘仏以外の仏像、仏画等の多くは東京・京都・奈良の国立博物館に寄託されている。
1989年10月から1990年9月まで東京国立博物館など4会場で開催された「智証大師一千百年御遠忌記念三井寺秘宝展」、1990年10月から11月に寺内で開催された「智証大師一千百年御遠忌大法会」、2008年11月から2009年5月まで大阪市立美術館など3会場で開催の「智証大師帰朝1150年記念国宝三井寺展」では、以上の秘仏すべてが一定期間公開された。なお、金堂本尊の弥勒菩薩像(弥勒如来とも)は、天智天皇の念持仏と伝え、唐からの請来像ともいうが、公開されたことがなく写真も存在しないため、いかなる像であるかは不明と言うほかない。
国宝
金堂
新羅善神堂
勧学院客殿
光浄院客殿
絹本著色不動明王像(黄不動)(既述)
木造智証大師坐像(中尊大師)
- 唐院大師堂の中央の厨子に安置。秘仏で、毎年10月29日の円珍の命日にのみ開扉される。卵形の頭の形と細い眼が特徴の独特の風貌は、各地に残る円珍の肖像に共通のものである。この像は、もと比叡山内の山王院(千手院)にあったと言われ、円仁(慈覚大師)門徒と円珍門徒の抗争激化のため、円珍門徒が比叡山を下りた正暦4年(993年)に三井寺に移されたものと言われている。ただし、作風的には10世紀後半頃のものと見られ、正暦4年頃に三井寺で新たに造像されたとの見方もある。1989年~1990年の「智証大師一千百年御遠忌記念三井寺秘宝展」で公開されたほか、1986年に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
木造智証大師坐像(御骨大師)
- 唐院大師堂内、中尊大師像の向かって左に安置する。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。荼毘に付した円珍の遺骨を納めるところから「御骨大師」と呼ばれて寺内で尊崇され、出版物への写真掲載は制限されている。中尊大師像より古く、9世紀末、円珍没後まもない頃の作と思われる。
木造新羅明神坐像
- 新羅善神堂に安置。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。円珍が日本へ帰国する際、船中に現われた神とされる。長いあごひげをたくわえ、目尻の下がった異様な相貌、異様に細く長い指など、きわめて特殊な像容を示し、日本彫刻史の中でも異彩を放っている。平安時代後期、11世紀頃の制作と推定される。1989年~1990年の「智証大師一千百年御遠忌記念三井寺秘宝展」で公開されたほか、1986年に開催された「開創千二百年記念比叡山と天台の美術」展でも公開されたことがある。
五部心観2巻
- 両界曼荼羅のうち、金剛界曼荼羅の諸尊を表わした白描(はくびょう)図像の巻物である(白描とは、陰影や肥痩のない均質な墨の線だけで表わした絵画のこと)。2巻のうち1巻は唐時代の制作で、円珍が師の法全(はっせん)から授かったもの。もう1巻は平安時代に日本で写されたものである。
智証大師関係文書典籍 - 円珍に関わる資料46種が一括して国宝に指定されている。主なものとしては、円珍の系図、唐への渡航関係文書、円珍自筆本、唐から請来した経典などがある。
重要文化財
木造不動明王立像 - 唐院大師堂の向かって右の厨子に安置される。秘仏で、特別な行事の時以外、開扉はされない。原本である黄不動の画像をもとに、鎌倉時代に彫像として造られた像である。
木造如意輪観音坐像- 西国観音霊場14番札所の観音堂の本尊である。秘仏で、開扉は33年に一度とされている。
梵鐘(弁慶の引き摺り鐘)
金堂裏の霊鐘堂に所在。「三井の晩鐘」の鐘とは別のものである。無銘だが、奈良時代に遡る日本でも有数の古鐘である。伝承では、俵藤太秀郷がムカデ退治のお礼に琵琶湖の竜神から授かった鐘だと言われ、その後比叡山と三井寺の争いに際して、弁慶が奪って比叡山に引き摺り上げたが、鐘が「イノー」(「帰りたいよう」の意)と鳴ったので、弁慶が怒って谷底へ捨てたという。現状、鐘の表面に見られる擦り傷やひびはその時のものと称する。歴史的には、この鐘は文永元年(1264年)の比叡山による三井寺焼き討ちの際に強奪され、後に返還されたというのが史実のようである。
出典 Wikipedia
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