2004/04/15

長浜城 ~ 黒壁スクエア(滋賀旅行part1)

京都の有名どころは、ひととおり行き尽した!

当時は、このような無知から来る勘違いにより「今年は滋賀へ!」となって初めての滋賀の旅となった。

名古屋から新幹線「こだま号」で米原まで行き、琵琶湖線に乗り換えると10分で長浜駅に到着した。

びわ湖に近い長浜城の天守閣跡を整備して、明治42年に整備された公園。長浜城主だった豊太閤・豊臣秀吉公にちなんで「豊公園」と名づけられました。

桜をこよなく愛した秀吉にふさわしく、現在の長浜城の天守を囲むように桜の木が植えられ「日本桜名所100選」に選ばれています。春には、ソメイヨシノを中心に約800本の桜が一斉に咲き誇り、開花に合わせて数日間夜間ライトアップも行われます。

また、豊公園や長浜の湖周道路から見る夕陽は「日本の夕陽100選」に選ばれており、びわ湖の沈む夕陽が湖面を赤く照らし出し、長浜城の天守閣(展望台)からの眺めは、眼下に広がる桜の海が壮観です。

長浜城は、滋賀県長浜市公園町の豊公園内にある、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が築城した日本の城跡

1573年(天正元年)、羽柴秀吉(豊臣秀吉)が浅井長政攻めの功で織田信長から浅井氏の旧領を拝領した際、当時「今浜」と呼ばれていたこの地を信長の名から一字拝領し「長浜」に改名した。小谷城で使われていた資材や、あらかじめ竹生島に密かに隠されていた材木などを見つけ出し、それらを使用し築城を開始した。

34年頃完成し入城。湖水に石垣を浸し、城内の水門から直に船の出入りができるようになっていた。城下町は小谷城下(滋賀県長浜市湖北町伊部)からそのまま移した。そのため現在でも城下町には、当時の面影や名残がある。秀吉が最初に築いた居城であり、秀吉の城下町経営の基礎を醸成した所でもある。

1581(天正9)、中国遠征で不在であった秀吉のあと、荒木村重討伐、越前一向宗制圧の功から堀秀政が、織田信長から長浜城主に任じられる。

1582年(天正10年)の本能寺の変後、清洲会議で長浜の支配権を獲得したのは柴田勝家であった。勝家の甥の柴田勝豊が長浜城の守将として入城するが、同年末には勝家と対立した秀吉に攻められ、勝豊は城ごと降伏した。1583年(天正11年)の賤ヶ岳の戦い後は山内一豊が入り、6年間在城した。1586118日(天正131129日)には天正地震により城が全壊し、一豊の一人娘である与祢らが死亡した。

1606年(慶長11年)に内藤信成・信正が城主になるが(長浜藩)、大坂の陣後の1615年(元和元年)に内藤氏は摂津高槻に移封され、長浜城は廃城になった。資材の大半は彦根城の築城に流用された。彦根城の天秤櫓は、長浜城から移したものと伝えられている。その他、長浜市内にある大通寺の台所門は長浜城の大手門を移したものと伝えられ、今でも矢尻の跡を見ることができる。同市内にある知善院の表門は、長浜城の搦手門を移したものと伝えられている。

城の一部が琵琶湖に水没し、長浜城遺跡となっている(琵琶湖湖底遺跡)

現在の天守は1983年に犬山城や伏見城をモデルにし模擬復元されたもので、市立長浜城歴史博物館として運営されている。

黒壁スクエアは、滋賀県長浜市旧市街にある、伝統的建造物群を生かした観光スポット。黒漆喰の和風建築である「黒壁1號館」から「30號館」までの総称であるが、一般に北国街道と大手門通り(美濃谷汲街道)の交差点である「札の辻」(江戸時代に高札が立った場所であることに由来)を中心とする区域として紹介されることが多い。

江戸時代から明治時代の和風建造物の連続性が高い情緒ある町並みと、その古建築を活用した美術館、ギャラリー、ガラス工房等の文化施設、レストラン、カフェ等が集積するエリアで、また日本最大のガラス芸術の展示エリアとして知られ、年間約200万人の観光客が訪れる湖北随一の観光スポットである。

旧市街地の中心である「札の辻」に建つ「黒壁銀行」の愛称で親しまれてきた旧第百三十銀行(1899年竣工)の取り壊しの危機に際し、旧市街の古建築の保存と再生のための博物館都市構想を掲げた第三セクター(長浜市と地元民間企業8社が出資)「黒壁」が1988年に設立された。


「黒壁」設立の主目的である旧第百三十銀行の保存と再生は、同建築が1989年に黒壁一號館「黒壁ガラス館」としてオープンすることにより達成された。 さらに「黒壁」は、この一號館の周囲の古建築を次々と美術館、ガラスショップ、工房、ギャラリー、カフェ、レストランへと再生して、その数10館、「黒壁まちづくり」に参画する館を合わせると計30の古建築の再生に携わった。1991年に新快速が長浜駅まで延伸したこともあって観光客が増え続け、その活況はエリア内の他の古建築の再生・活用へと波及していった。



400年の伝統に支えられた寂れた商店街と古い住宅街が、今や湖北最大の観光スポットへと変貌を遂げている。町おこしの成功例として有名で、日本各地から視察が絶えない。
出典 Wikipedia

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