浜大津は滋賀県大津市の中心市街地。琵琶湖に面した大津港を擁し、古くから交通の拠点として栄えた。浜大津駅が最寄り。シネコンやボウリング場などのアミューズメント施設を含む浜大津アーカスや、再開発ビルの明日都浜大津などがある。琵琶湖沿岸は整備された公園になっており、多くの市民の憩いの場になっている。
1997年10月の京都市営地下鉄東西線の開業で京都市の三条京阪駅へ22分、太秦天神川駅まで36分、徒歩約15分の大津駅から京都駅へ9分、大阪駅へ最短39分で到着する。
かつては京阪地区と北陸地方を結ぶ玄関口・水運の拠点として発展した。現在は琵琶湖汽船の観光クルーズ船が就航している。
ミシガン - 琵琶湖南部のクルーズ
ビアンカ - 竹生島港~長浜港までのクルーズ
琵琶湖は、滋賀県にある湖。日本で最大の面積を誇る。湖沼水質保全特別措置法指定湖沼。ラムサール条約登録湿地。河川法上は一級水系「淀川水系」に属する一級河川であり、同法上の名称は「一級河川琵琶湖」である。
滋賀県の面積の6分の1を占め、流れ出る水は瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて、大阪湾(瀬戸内海)へ至る。また、湖水を京都市や淀川流域の水道水として使用するために、琵琶湖疏水が京都に流れている。最狭部に架かる琵琶湖大橋を挟んだ北側部分を北湖(太湖)、南側部分を南湖と呼び、水質や水の流れなどが異なる。
琵琶湖を取り巻く各自治体は、大きく湖南・湖東・湖北・湖西に分けられる(湖南から甲賀を分けることもある)。湖を取り囲む山地からの流れが源流で、京阪神の水瓶という機能も担っている。また、古くから水上交通路としても利用されており、明治時代に鉄道が開通するまでは、京都・大阪から東国・北陸への物資輸送に利用されていた。
なお「急がば回れ」という諺は、現在の草津と大津の間を結んでいた「矢橋の渡し」を詠んだ和歌が語源となっている。
東京湾中等潮位 (T.P.) 基準で+84.371 m、大阪湾平均干潮位 (O.P.) 基準で+85.614 mの高さが琵琶湖基準水位 (B.S.L.) と定められており、「琵琶湖の水位」とはB.S.L.を±0 mとした水位のことをいう。B.S.L.は、1874年(明治7年)に鳥居川観測点において「これ以上水位が下がることはない」と判断された点として定められたものであるが、その後、瀬田川の改修によって流出量が多くなったことなどにより、水位がB.S.L.以下になることが多くなった。現在では、B.S.L.の値がおおむね満水位となるように水位の調整が行われている。
歴史
琵琶湖西岸を区切る琵琶湖西岸断層による断層崖が、比叡山から比良山地へと続く。琵琶湖西岸は断層崖が急激に琵琶湖に落ち込むため平地に乏しい。この断層の主活動時期は、20万から30万年前で琵琶湖の歴史に比べて新しい。
琵琶湖が形成された時期は、約400万年~600万年前で、現在の三重県伊賀市平田に地殻変動によってできた構造湖であった(大山田湖)。これが次第に北へ移動し、比良山系によって止められる形で現在の琵琶湖の位置に至ったという。
大山田湖以前、現在の琵琶湖の位置には山(古琵琶湖山脈)があり、鈴鹿山脈は未だ隆起せず、今日の琵琶湖東南部の河川は伊勢湾へ流れていた。それを裏付けるように、鈴鹿山脈の主要な地質は礫岩である。また、琵琶湖に流入する最大の川で東南に位置する野洲川は、当時西方ではなく東方へ流れていたという。
世界の湖の中でも、バイカル湖やタンガニーカ湖に次いで3番目に古い古代湖であると目されている。
縄文時代や弥生時代から交通路としても利用され、丸木舟なども出土している。古代には、都から近い淡水の海として近淡海(ちかつあわうみ、単に淡海とも。古事記では「淡海の湖」(あふみのうみ)と記載)と呼ばれた。近淡海に対し、都から遠い淡水の海として浜名湖が遠淡海(とおつあわうみ)と呼ばれ、それぞれが「近江国(おうみのくに、現在の滋賀県)」と遠江国(とおとうみのくに、現在の静岡県西部)の語源になった。別名の鳰海(におのうみ)は、近江国の歌枕である。
天智天皇により、一時は琵琶湖西岸に大津宮が置かれた。測量技術が発達し湖の形が琵琶に似ていることが判った江戸時代中期以降、琵琶湖という名称が定着した。
琵琶湖は、若狭湾沿岸からの年貢の輸送路としても利用されており、湖上で賊に襲撃された記録なども残されている。湖西には、大津から若狭国へ向かう西近江路や若狭街道、京都から琵琶湖などを経て今庄から北陸道につながる北国街道などの各種交通路が整備された。湖上交通による荷物の輸送も行われており、大津や堅田などは港湾都市として発達した。
安土桃山時代には、豊臣秀吉は大津の船持に大津百艘船を整備し、観音寺の船奉行の支配下に置かれ、特権を与えられて保護された。近世になると、大津は松原や米原など他の港と対立し、江戸時代には松原、米原、長浜が「彦根三湊」として井伊氏の保護を受けた。
琵琶湖が淀川となって大阪湾に流れる位置から、京都が首都だった時代には若狭湾で陸揚げされた物資が琵琶湖の湖上交通で京都や大坂に輸送されていた。湖上を介した水運は陸上交通の発達によって斜陽となったが、高度経済成長期には琵琶湖から運河を掘削して、日本海や太平洋・瀬戸内海を結ぶ運河構想が持ち上がった。当初は、琵琶湖から日本海と瀬戸内海を結ぶ阪敦運河構想を北栄造福井県知事が調整し始めたが、当時の平田佐矩四日市市長が熱心だったこともあり、福井県・滋賀県・岐阜県・愛知県・三重県、名古屋市・敦賀市・四日市市の間で、自民党副総裁の大野伴睦を会長に、総工費2500億円~3500億円に及ぶ若狭湾~琵琶湖~伊勢湾を結ぶ運河の建設期成同盟が結成された。しかし、大野自民党副総裁、平田四日市市長の死去と、北福井県知事、畑守敦賀市長が相次いで落選するなど、推進の中心人物を失い、1970年には中部圏開発整備本部が調査の打ち切りを発表した。)
生物相
琵琶湖の生態系は多様で、1000種類を超える動・植物が生息している。長い期間自立したため、その中には琵琶湖にのみ生息する固有種も数多く確認されている。その規模も大きく、独特の漁業が発達した。
その一方で、オオクチバスやブルーギルをはじめとする外来種の侵入や、1992年の琵琶湖水位操作規則の改訂、内湖の消失、水田とのネットワークの分断等によって固有の生物相が大きく攪乱を受け、漁獲高が激減した種も多い。それらへの対抗策も講じられ、外来種駆除や生態系に配慮した水位操作、内湖の再生など様々な取り組みが行われているが、まだ十分な効果をあげられていない。また、琵琶湖産の稚アユは日本各地へ放流され、そのために琵琶湖固有種だけでなく、稚アユと共に混獲され放流されたオイカワなどの種が各地で繁殖するという、移入種を生み出す元ともなっている。
出典Wikipedia
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