京都の「錦小路」といえば「錦市場」で知られる通り古くから《京の台所》とも言われる存在として知られています。
では、このどこにでもありそうな地名の、一体どこが「おもろい」のかと言うと、実は名前そのものよりもこの地名が生まれるに至った由来に、そのおもろさが隠されていました。
以下、『極める京』(http://www.ne.jp/asahi/kiwameru/kyo/)から引用。
《今は昔。
清徳という、立派な名の聖がいた。
母親が亡くなったので、柩に入れてたった一人で愛宕山へ運び、四隅に大石を据えてその上に柩を安置した。
そして、物も食わず湯水も飲まず、声絶えることもなく千手陀羅尼経を踊して、柩をめぐる日々がつづく。
その間、三とせ。
三年目の春、夢ともなくうつつともなく、ほのかに亡き母の声が聞こえた。
「おまえの踊してくれた陀羅尼経のおかげで、わたしゃ仏になりましたよ」
ああ、よかった・・・おっかさんは成仏なさったんだと喜んだ清徳は、その場で柩を焼き遺骨を取り集めて埋め、石の卒塔婆を立てて京に降りてきた。
西京のあたり、水葱のたくさん生えたところを通りかかった彼は空きっ腹を思い出し、道すがら手折ってはムシャムシャ食っていると、田の主が姿を見せ呆れかえってしまった。
「どうして、そんなに食うんですか?」
「腹が減ってしまって、堪りません」
「そういうわけでしたら、そうぞそうぞ」
という次第で、さらに三十本ばかり頬張りつづけたが、それにとどまらない。
結局は三町歩ばかりの葱田は、まるきりの裸になってしまった。
「あさましいくらい、大食いの聖じゃ」
ここまでくれば「驚き」の範囲を出ている。
その上、白米一石をもらって、これも一粒のこさず腹中に収めたのである。
この噂、坊城の右大臣の耳に入った。
「おもしろい。
呼んで物を食わせてみようではないか」
そこで清徳を招いたところ、その尻には餓鬼、畜生、虎、狼、犬、馬、数万の鳥獣が、ぞろぞろ雲霞の如くにくっついてきた。
これが、右大臣以外の人の目には見えず、ただ聖の姿だけが映るのであった。
邸では十石の米が炊かれ清徳の前に並べられたが、清徳は一向にこれを食べようとせず群集して手を差し出す餓鬼達が、むさぼり喰ってしまった。
餓鬼たちの姿が見えた右大臣は
「なるほど、只の人物ではないな。
仏様の変身であろうかの」
と、感嘆することしきりであった。
ほかの凡くらどもには、まことに不思議な一幕に終わったわけである。
ところが、である。
下京は四条の北、とある小路にやってきた清徳以下のお歴々、例のものを催した。
西京から四条通までの間で、消化しきったというわけか。
呵々。
それはともかく、数万の「大軍」がいっせいにお尻を並べての行為だから、あたり一面墨のようにまっくろな黒墨の山々。
人称して「糞小路」
この話、帝の耳に流れた。
「四条の南(の小路)は、なんと言うのか」
「綾小路にござりまする」
「あ、そう。
それなら、錦小路と名づけよう。
糞小路では余りに汚い」(『宇治拾遺物語』(上本一、清徳聖奇特の事)より)
「錦」という名からは、なにやら美しげな雅なイメージが髣髴と湧き上がってきそうですが、実はまったくの正反対から苦肉の策として生まれた地名だったのか、と驚いてしまいそうです。
ところがどうやらこれは架空の物語らしく、元々この地域は「糞小路」ではなく「具足小路」と言っていたのが正しいらしい。
それというのも、この一帯は平安京の当時には道幅も10mを越える大路であり、また武具甲冑の職人が住む地域で、そうした携帯品や調度類などを売っている店が軒を並べていた事から、この「具足小路」の名前が生まれたらしく、いつしかそれが訛って「糞小路」となって、こうした物語が生まれたと考えられます。
それを証明するのが、平安末期の文献にある「具足小路を天喜2年に錦小路と改称した」とある記述で、上記のように「具足小路」が訛って「糞小路」となったのだと解釈できます。
ところが、別の文献には
「糞小路を天喜2年に錦小路に改称」ともあり、こうした事から改称当時には、既に「糞小路」の別名もあった事も窺えます。
そちらの説での「錦小路」の名の由来は「大和錦の織物を作る人が住んでいたから」という事になるようです。
ちなみに魚商などが住むようになり、現在のような市場が形成されたのは、江戸初期からという事のようです。
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