2003/10/24

食を楽しむ



 人間の三大欲求とは、一般的に「睡眠欲」、「食欲」、「色欲」と言われる。

 しかしながら除夜の鐘に代表されるように、佛教の教えでは108つもの煩悩を抱えている俗物が人間だから、これ以外にも「権力欲(名誉欲)」、「金銭欲」、「遊興欲」、「怠惰欲」なども代表的な欲求と言える。

 で、これらの欲求どもを大まかに分類してみると、世に言われる「三大欲求」をごちゃ混ぜにしてしまうのはおかしな話であり、まずは「一次(絶対)欲求」と「二次(相対)欲求」に分けるべきである。

 「一次欲求」とはすなわち、最低限のそれがなければ存命に関わる最高位の欲求のことで「食欲」、「睡眠欲の2つが該当する。

 一方「色欲」、「金銭欲」「権力欲(名誉欲)」は、人により異常なまでに強いケースはあったとしても、それなくして命に関わる欲とは認められず、あくまで「一次欲求」が満たされた後の「(贅沢な)二次欲求」と位置付けられるべきである。

 ただし「色欲」ではなく、種の保存本能としてとしての「生理的欲求」という意味であれば、これは一時的欲求に分類されるかもしれない。

 次に「欲求の度合い」という問題が出てくる。

 最低限のそれが満たされなければ、生存に関わる「一次欲求」にせよ、生存が脅かされない程度に満たされていれば、それ以上は要らないというように「本能が最低限満たされた状態」以上の欲求となると、一次欲求にも極めて無頓着な人は少なくない。

 たとえば

 「寝ているよりも、起きて色々と楽しい事をしていたい」

 と、絶対欲求よりは遥かにレベルが低い「ゲーム欲」に取り憑かれた結果、一次欲求の睡眠時間を削っている人や「貧しくても良いから、好きな事をして自由に(或いは、ぐうたらと?)生きたい」という考えに基づき、金銭には驚くほどに無頓着な人もいるのが事実である。

 無論、食欲についても同様だ。

 まったく食べなければ死んでしまうが、決して金がないわけではないのに11食や2食の粗食で充分満足という「食生活」に関しては無頓着な御仁も存在する。
 
 テレビの連続時代劇の収録で毎日、店屋物のオーダーを訊かれる主役の大物俳優の某さんは、連日ハンで押したように

 「カツ丼!」

 のひと声だったらしい。

 (この人は、余程カツ丼が好きなんだなぁ・・・)

 と、当初は感心していた店主だったが、来る日も来る日も「カツ丼」の一点張りに業を煮やしながら、いつも忙しそうな某氏には、なかなか声をかけられなかった。

 ある日の出前の折に、珍しくヒマそうな某氏の姿を目に留めた主人は、例によって何とかの一つ覚えのように

 「カツ丼!」

 という某氏に、ここぞとばかりに声をかけた。

 「xxさんが大変にカツ丼がお好きなのは、よーくわかりました・・・しかしウチには、他にも美味しいものが沢山ありますから、たまには違うのも食べてご覧になられては、いかがでしょうか?」

 「へー・・・どんなのがあるの?」

 「えーっと、例えば・・・ 天丼もありますし、あとは・・・」

 と言い終わらぬうちに

 「よし。

 じゃ、天丼だ!」  

 ここぞとばかり、メニューを羅列していこうと意気込んだ主人を遮るや、間髪いれず「天丼」に決めた某氏。

 翌日からは「カツ丼」に代わり「天丼!」のナントカの一つ覚えが、延々続く結果となったそうな。

 つまり、某氏が「食事」に関して殆ど無頓着だった(少なくとも撮影所内では)と考える事も出来るが、実際には恐らく目の前のメニューを考える事すら億劫に感じるほど、役作りにのめり込んでいたのだろう、と推測すべきである。

 ここまで来れば、おそらくは無理に「鰻丼」を喰わせようが「かけそば」を喰わせようが味の認識も怪しいもので、こうなると最早「食事」とはいえず、単に生存のために空腹を満たすだけの「エサ」に過ぎない

 これは極端な例とはいえ、わが身を振り返っても忙しい日常にあっては、寝坊が好きな人は朝食をゆっくり食べている時間などはなく、ついつい出勤の車の中 でパンを齧りながらで済ませてしまったり、宮仕えの身では昼食時間も決まってくるので、それこそ味も ヘッタクレもなく、ただ腹を満たすためだけに立ち食いそばを掻き込む「エサ」としての食事を余儀なくされることは、誰しも経験があるだろう。

 これに比べると、欧米などは押し並べて「食事の時間」を大切にする文化がある。

 なんでも欧米を真似ろとなどと言うつもりは毛頭ないが、食事(というよりは「食事を通じた、家族団欒などのコミュニケーション」というべきか)を大切にする文化に関しては、人の生き方や文化の豊かさとして見た場合、やはりあるべき姿であろうと思わずにはいられない。

 欧米といっても国によって違いはあるのだろうが、かつて訊いた話では、押し並べてランチタイムが時間くらいはザラで、職場から自宅へ帰って家族で食卓を囲むなんてのも当たり前ということだった。

 フランスでは昼休みが3時間もあって、家で食卓を囲んでワインを飲んだ後で、日が暮れた頃に職場に戻ってくるのだ、などとという話もあって

 (いくらなんでも冗談だろ!)

 と大いに疑ったし、話がオーバーに脚色されているかもしれない。

 が、それを割引いたとしても、日本の「ランチ事情」は逆の意味で異常であると言えるのではないか。

 寧ろ欧米人から見れば、僅か30分程度にセカセカした足取りで毎日、職場で散々に見飽きた面白くもない顔を眺めながら、隣の客と肩ふれあう狭いスペースでせっせと「エサ」を掻き込む姿は、さぞかし狭い小屋に押し込められたブロイラーを連想せずにはおかない、貧弱な食卓風景に映るだろう。

 薄汚れた立ち食い蕎麦屋で、立派なスーツを着た中高年のサラリーマンが、背中を丸めて蕎麦を掻き込んでいる姿は、実に滑稽の極みである。

 ある情報によれば、日本のランチバイキングやランチタイムに見られるような、世界中の料理を集めたかの豪華なメニューは、他の国ではまずお目にかかれないというから、その点では豊かな食生活と言えなくはないが、それも短いランチタイムを気にして数分おきに時計に目をやっているようでは、やはり真の意味で「豊かさ」とは程遠い。

 勿論、蕎麦が悪いなどと言っているのではない。

 「食生活」とは、あくまで金やご馳走を競うのではなく、豊かな心の持ちようなのであるから、たとえ食卓は上は貧しくとも

 《楽しく(心の)豊かな、食のあり方》

 という精神だけは、大切にしたいと言いたいのである。

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