2003/10/12

知恩院の文化財(京都桜紀行part2)



本堂

 三門をくぐり、急な石段を上った先の台地に南面して建つ。寛永16年(1639年)、徳川3代将軍徳川家光によって建立。宗祖法然の像を安置することから、御影堂(みえいどう)とも呼ばれる。入母屋造本瓦葺き、間口44.8メートル、奥行34.5メートルの壮大な建築で、江戸幕府造営の仏堂としての偉容を示している。建築様式は外観は保守的な和様を基調としつつ、内部には禅宗様(唐様)の要素を取り入れている。柱間は正面11間、奥行9間で、手前3間分を畳敷きの外陣とし、その奥の正面5間・奥行5間を内陣とする。内陣の奥には四天柱(4本の柱)を立てて内々陣とし、宮殿(くうでん)形厨子を置き、宗祖法然の木像を安置する。徳川幕府の造営になる近世の本格的かつ大規模な仏教建築の代表例であり、日本文化に多大な影響を与えてきた浄土宗の本山寺院の建築としての文化史的意義も高いことから、2002年に三門とともに国宝に指定されている。屋根の上、中央に屋根瓦が少し積まれているが、これは完璧な物はないことの暗喩だとされる。2007年から屋根の修復作業が行われている。

経蔵
本堂の東方に建つ、宝形造本瓦葺き裳階(もこし)付きの建物。三門と同じ元和7年(1621年)に建立された建物で、徳川二代将軍・秀忠寄進による宋版大蔵経六千巻を安置する輪蔵が備えられている。

大方丈
本堂の右手後方に建つ。寛永18年(1641年)に建立された檜皮葺き・入母屋造りの華麗な書院建築で、54畳敷きの鶴の間を中心に狩野一派の筆になる豪華な襖絵に彩られた多くの部屋が続く。

小方丈
大方丈のさらに後方に建つ。大方丈と同じ寛永18年(1641年)に建立された建物で、襖には狩野派の絵が描かれているが、大方丈に比べ淡彩で落ち着いた雰囲気に包まれる。東側の庭園は「二十五菩薩の庭」と呼ばれ、阿弥陀如来が西方極楽浄土から25名の菩薩を従えて来迎する様を石と植込みで表現したものである。

勢至堂
境内東側、急な石段を上った先の小高い場所にあり、本地堂とも呼ばれる。付近は、法然の住房のあった地である。入母屋造本瓦葺き。寺内の建物では最も古く、室町時代享禄3年(1530年)の建築。建立当初は本堂(御影堂)であった。内陣厨子内に安置する本尊勢至菩薩坐像は鎌倉時代の作で、2003年に重要文化財に指定されている。勢至菩薩を本尊とする堂は他に殆ど例を見ないが、浄土宗では法然を勢至菩薩の生まれ変わりとしており(法然の幼名は「勢至丸」であった)、法然の本地仏として造立されたものと思われる。前述の山亭は、勢至堂の客殿として建てられたものである。以上の他、唐門、集會堂(しゅえどう)、大庫裏(おおぐり、「雪香殿」とも)、小庫裏(こぐり)が重要文化財に指定されている。いずれも寛永復興期の建築である。
 

阿弥陀堂
本堂の向かって左に東面して建ち、本尊阿弥陀如来坐像を安置する。明治時代の再建だが、正面に掲げられている「大谷寺」という勅額は、後奈良天皇の宸筆である。

宝仏殿
本堂の南側に北面して建つ寄棟造の仏堂。平成4年(1992年)の建立で、内部には阿弥陀如来立像と四天王像を安置する。

権現堂
小方丈のさらに奥に建つ小規模な仏堂。内部には知恩院の造営に関わった徳川三代(徳川家康・秀忠・家光)の位牌と肖像画を安置する。
Wikipedia引用

 雲ひとつない春の麗らかな陽気の中、日本庭園へ入ると観光客の姿がグッと少なくなり、さらに奥へ奥へと進むに連れて人影はパッタリと途絶えた。

(ここまで来て、庭園を観て行かないとは、みんなド素人はんやなー)

と一人無意味な優越感に浸っていると、ずっと奥の方から若そうな女性の二人連れが歩いてくるのが見えた。

(ほほぉ~、若い女二人で庭園観賞とは感心感心・・・)

と鷹揚に構えていたが、次第に距離が近付いてくるにつれ、一瞬我が目を疑った。そのはず「二人連れの若い女性」と見えたのは、確かに「若い女性」には違いないが、どうみても10歳そこそこの小学生だったのだ。しかも、擦れ違いざまに

「なかなか品のいい、素敵なお庭よね」

「本当ねー」

という落ち着いた口調の会話と、こうした庭園観賞にはかなり年季の入っていそうな物腰が、そこはかとなく漂っており、すっかり愚かな優越感は萎んでしまった。周囲の迷惑などは顧みず、グループで狼藉の公害を巻き散らかながら歩き回っている、そこいらのオバタリアンどもに《正しい観賞の仕方》のお手本として、是非とも見せてやりたいものである。

山亭庭園
大方丈前から石段を上った山腹に位置し、京都市街を一望できる眺望のよい場所にあり、庭園は江戸時代末期の造営の枯山水庭園である。山亭の建物は、霊元天皇第10皇女浄林院宮吉子の御殿を宝暦9年(1759年)に下賜されたもので、明治時代に大改修を受けている。

方丈庭園
江戸時代初期の寛永10(1633)に作庭が始まる。南庭と北庭で構成される。京都市指定名勝

どれもこれもが期待以上の知恩院での締めくくりは三門で、とても筆舌には尽くしがたい迫力だ。

三門




本堂へ向かう急勾配の石段の途中に西面して建つ。元和7年(1621年)の建立(平成の大修理で同年の墨書が発見されている)。五間三戸の二重門である(「五間三戸」は正面柱間が5つで、うち中央3間が通路になっているもの。「二重門」は2階建てで、1階・2階の両方に軒の張りだしがあるものをいう)。高さ24メートルの堂々たる門で東大寺南大門より大きく、寺院の三門(山門)としては日本最大のものと言われている。組物(軒の出を支える構造材)を密に並べるなど、細部の様式は禅宗様であり禅寺の三門に似た形式とする。門の上層内部は釈迦如来像と十六羅漢像を安置し、天井には龍図を描くなどやはり禅寺風になっている。

 「日本三大門のひとつ」とされる説がある。

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