宇賀福神社は神奈川県鎌倉市にある神社で、宇賀福神を祀る。洞窟内にある清水で貨幣などを洗うと増えるとされることから「銭洗い弁天(弁財天)」の名で知られる。鎌倉の大仏から行く場合、ハイキングコースではなく江ノ島電鉄線で鎌倉駅に戻ってから登って行ったほうが早い。
1185年(文治元年)、源頼朝によって創建されたと伝わる。御神体を祭る洞窟の水には、源頼朝が巳の年、巳の月、巳の夜、夢枕に現れた老人のおかげで岩から湧き出る霊水を発見した。そして、社を建てて宇賀福神を祀ったという伝説がある。
この有名な名前は無論知ってはいたものの、不覚にも奥宮で実物を前にするとどうやったらよいのかがわからず、途方に暮れてしまった。仕方なく奥宮を出てみやげ物屋をひやかしていると、ここにも賑やかな小学生の団体がやって来て、どうやら奥宮に入ってお金を清めている様子。
(やはりここまで来て、肝心のあれをやっていかないのは意味がないよなぁ・・・)
再び奥宮に戻ると、子供らから少し離れた場所に陣取りさりげなく様子を観察した。
(なんだ・・・ああやれば良いのか・・・)
幼い子らに学び、早速持ち合わせの500円玉と100円玉を1枚ずつ清めた。
(ここで清めたお金で長谷寺のおみくじを引いて、悪いメが出たらどこへ文句をいってけばいいのやら・・・)
などと、くだらない事を考える。
銭洗い弁財天を後にし、鶴岡八幡宮へと向かう。
(鎌倉って観光地として有名な割りには、案外人が少ないな)
と来た時から思っていたのだが、どうやらここが表通りらしい鶴岡八幡宮への参道になっているアーケードの通りは、人でごった返していた。
鶴岡八幡宮は神奈川県鎌倉市にある神社で、武家源氏、鎌倉武士の守護神である。
「鎌倉八幡宮」とも呼ばれ、境内は国の史跡に指定されている。
康平6年(1063年)8月、河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地とする河内源氏2代目の源頼義が、前九年の役での戦勝を祈願した京都の石清水八幡宮護国寺(あるいは河内源氏氏神の壺井八幡宮)を鎌倉の由比郷鶴岡(現材木座1丁目)に鶴岡若宮として勧請したのが始まりである。
永保元年(1081年)2月には、河内源氏3代目の源義家(八幡太郎義家)が修復を加えた。治承4年(1180年)10月、平家打倒の兵を挙げ鎌倉に入った河内源氏後裔の源頼朝は、12日に宮を現在の地である小林郷北山に遷す。以後、社殿を中心にして幕府の中枢となる施設を整備していった。
建久2年(1191年)、社殿の焼失を機に上宮と下宮の体制とし、改めて石清水八幡宮護国寺を勧請した。承元2年(1208年)には、神宮寺が創建される。
源頼朝が鎌倉幕府を開いた後は、源義家が勧請した経緯もあり武家の崇敬を集めた。
鎌倉幕府衰退後は、25の僧坊の数も減少し一時衰退したが、江戸時代に入ると江戸幕府の庇護を受け大規模化が進み、仁王門、護摩堂、輪蔵、神楽殿、愛染堂、六角堂、観音堂 法華堂、弁天堂等を建築し、徳川家光の治世に薬師堂、鐘楼、楼門なども建てられた。境内には方五間の多宝大塔、東照宮も存在した。
江戸幕府崩壊後、慶応4年(1868年)3月13日に「神主を兼帯していた僧侶に対して還俗する旨の通達」が明治政府から出され、また明治3年(1870年)に大教宣布がなされると、鶴岡八幡宮においてもいわゆる廃仏毀釈の動きが始まった。
同年中に多宝大塔などの仏堂は破壊され、仏像、仏具、什宝、経典なども破壊・焼却処分されるか散佚した。ただし一部は現存し、鎌倉寿福寺、浅草寺、普門院、五島美術館、東京国立博物館に保管されている。
鶴岡八幡宮の場合、これらは神主に改名した十二院の社僧が中心となって行った。また、一部残存していた仏堂も、その後の火事で消失したが、外国人観光客等が撮影した写真やスケッチが残されている。
源平池
北条政子が掘らせたと伝わる池。源氏池には島が3つ、平家池には島が4つ浮かび、それぞれ産と死を表すという。源氏池の島には、旗上弁天社がある。
太鼓橋
源平池を横切るように作られている石造の橋。創建当時は木造で、朱塗りだったため「赤橋」と呼ばれた。北条氏の庶流・赤橋家の苗字は、この橋の名称に由来する。
舞殿
下拝殿とも呼ぶ。源頼朝の求めに応じて舞った静御前が、源義経を慕う次の歌を詠んだ。
“吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき しづやしづ
しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな”
ただし、当時はまだ舞殿は建立されておらず、実際に静御前が舞ったのは若宮社殿の回廊だといわれている。
大石段
61段あり、登りきると本宮である。
本宮(上宮)
文政11年(1828年)に徳川家斉が再建した流権現造で、国の重要文化財に指定されている。本宮は、大石段上にある。
大銀杏
樹齢800年とも、1000年余とも言われていた。建保7年(1219年)1月27日、源頼家の子で八幡宮の別当を務めていた公暁がこの銀杏の木に隠れて待ち伏せ、源実朝を殺害したという伝説があり、隠れ銀杏という別名がある。しかし、当時の樹齢を考えると、人が隠れることのできる太さにはまだ成長していなかった、という説もあるため真偽は不明。伝説を疑問視する説もあれば、公暁が身を隠したのは先代の樹であり、現在の樹は二代目であるとする説もある。
昭和30年(1955年)より神奈川県の天然記念物に指定され、鶴岡八幡宮のシンボルとして親しまれていた。
※平成22年(2010年)3月10日4時40分頃に、強風のために根元から倒れた。倒れた大銀杏は3つに切断され、3月15日、根元から高さ4メートルまでが、7メートル離れた場所に移植された。残る2つは、境内に保存される。倒壊から約一ヶ月たち、再生への努力が実を結び若芽が確認された。
出典Wikipedia
例によって団体客で埋った境内は足早に通り過ぎ、日本庭園に入る。中に入ると人影は殆んどなくなり、ようやく落ち着いた気分で池泉回遊式庭園をまったりと散策してみた。
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