2003/10/14

円山の枝垂~平野の夜桜(京都桜紀行part4)

ここまで来たのだからと、またしても清水寺へ。これまで何度も足を運んでいるが、八坂の塔から二年坂、産寧坂(三年坂)辺りの一帯はいつ来ても祇園参りの舞妓はんや観光客でごった返し、最も京都に来た事を実感できるエリアの一つである。

 法観寺は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院である。山号は霊応山で、観音霊場として知られる清水寺の近隣に位置する。街中にそびえ立つ五重塔は通称「八坂の塔」と呼ばれ、周辺のランドマークとなっている。境内は狭く、塔以外に目だった建築物がないことから「八坂の塔」は、寺自体を指す通称ともなっている。

伝承によれば、当寺の五重塔は592年聖徳太子が如意輪観音の夢告により建てたとされ、その際、仏舎利を三粒を収めて法観寺と号したという。聖徳太子創建との伝承は文字通りに受け取ることはできないが、平安京遷都以前から存在した古い寺院であることは確かとされており、朝鮮半島系の渡来氏族・八坂氏の氏寺として創建されたという見方が有力である。

治承3(1179)、火災で焼失したが源頼朝により再建された。その後も幾度か焼失したが、その都度再建されている。現在の塔は、足利義教(室町幕府第6代将軍)により再建されたものである。その間、仁治元年(1240年)に臨済宗建仁寺派に属する禅寺となる。  さらに暦応元年(1338年)より、夢窓疎石の勧めにより足利尊氏が全国に安国寺・利生塔を建てたが、都の利生塔としてはこの塔を充て仏舎利を奉納した。戦国時代には、地方から上洛した大名が当寺に定紋入りの旗を掲げることによって、誰が新しい支配者・天下人になったかを世人に知らせたという。

 五重塔は高さ49mで東寺、興福寺の五重塔に次ぐ高さをもつ純和様、本瓦葺の建築である。中心の礎石は創建当初のものが残っており、そのまま使われている。初層内部には、大日如来を中心とする五智如来像を安置する。塔の中は公開されることもあり、礎石の上の心柱や諸仏を見ることができる。また階段を二層目まで登ることもでき、窓から京の町並みを眺望できる。重要文化財に指定されている。


他の堂宇としては、太子堂、薬師堂、茶室がある。太子堂には、聖徳太子の3歳と16歳の像がある。薬師堂には本尊の薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、夢見地蔵、さらに十二神将像が安置されている。茶室は、五重塔の風鐸の音を聞くことができることから聴鐸庵という(風鐸とは、塔の軒先に吊された風鈴状のもののこと)。ほか境内には、木曽義仲の首塚と伝わる石塔もある>

北野紅梅町に宿を取り、チェックインを済ますと神社はホテルからは目と鼻の先であった。

円山の枝垂れ、平野の夜桜》として京都でも有名な夜桜の名所だけに、酔っ払いが沢山いてガラが悪い。ここは早々に切り上げてホテルに戻り、翌日に備える事にする。

 翌2日目は早く起きて再び平野神社ヘ行くと、小雨のぱらつく境内には人影一つ見えず、満開の桜を独占しているような贅沢な気分を味わう僥倖に恵まれた。

平野神社は、京都府京都市北区にある神社である。式内社(名神大)で、旧社格は官幣大社。延暦13年(794年)、桓武天皇による平安京遷都に伴いい、平城京で祀られていた今木神・久度神・古開神を遷座・勧請したのに始まる。 元々、今木神は平城京の田村後宮に、久度神・古開神は大和国平群郡の式内・久度神社に祀られていた。比売神は承和年間より祀られるようになったものである。

『文徳天皇実録』によれば、仁寿元年(851年)、今木神に従二位、久度神・古開神に従四位、比売神に正五位の神階が授けられ、その中で当社のことを「平野神宮」と記述している。その後も神階は昇って行き、貞観元年(859年)には今木神に最高位の正一位の神階が授けられている。延喜式神名帳には「山城国葛野郡 平野祭神四社」と記載され、名神大社に列していた(2005年まで鳥居の扁額には「平野大社」と銘記されていた)。

また祭神について「平野大神」、「皇大御神」という称号も使用されていた。平野神社の鳥居には「平野皇大神」の扁額が掲げられている。例大祭の平野祭には、皇太子が奉幣する定めになっていた。また歴代天皇の行幸も、円融天皇から後醍醐天皇までの1721回を記録するなど天皇家の崇敬も厚く、それに伴い源氏、平氏、大江氏、菅原氏などの公家の氏神にもなった。中世には、二十二社の一社となった。神紋は桜で、今も桜の名所として名高い。

平安時代の中ごろ、花山天皇によって境内に数千本の桜が植えられたのが起源で、寛和元年(985年)410日に臨時勅祭が開かれ、平野桜祭りとして今に残る。応仁の乱をはじめたびたび社殿が焼失し、そのたびに再建を繰り返し、天文法華の乱によって、社殿および社領は完全に荒廃したといわれる。1871年(明治4年)に官幣大社に指定された。現在の社殿は、江戸時代寛永年間の造営である。一間社春日造の社殿を4つ並べ、2殿ずつを合いの間で連結するという独特の様式で「比翼春日造」とも、社名より「平野造」とも呼ばれる。重要文化財に指定されている>

桜苑で鳥の囀りを聴きながらノンビリと散策していると、7時を廻る頃から近所の住人らしい犬の散歩をする姿がチラホラと見られるようになり、適当な頃合いを見計らって神社を後にした。

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