戦国時代末期には前関白近衛前久の別荘にもなったが、これは慈照寺の歴代住持に近衛家出身者が多かったことによる。前久の死後は、再び相国寺の末寺として再興された。1952年3月29日には、庭園が特別史跡及び特別名勝に指定された。1994年12月17日には「古都京都の文化財」として世界遺産に登録されている。>
団体客でごった返す参道をゆっくりと歩いて行くと、両脇には期待した桜ではなく椿が咲き乱れている。
<慈照寺の門から庭園を結ぶ入り口の道の両側の垣根は、銀閣寺垣と呼ばれている>
銀閣寺で最も驚いたのはあの銀沙灘と向月台、そして錦鏡池に浮かぶ銀閣のお目当ての三点セットがいきなり視界に飛び込んできたことである。通常はこうしたメインとなる見所は、拝観コースの奥まったところにもったいぶった感じでデーンと控えているものだけに、このいきなりの出現は非常に強烈なインパクトを感じた。
<銀閣、国宝。「銀閣」は足利義政の山荘東山殿に造営された観音殿のことで、義政の祖父・3代将軍義満が建てた金閣と対比されて用いられる通称である。 1489年(延徳元年)に上棟されたことがわかっており、同年をさほど隔てない頃に完成したと思われる。重層、宝形造、杮(こけら)葺で、平面は長方形で正面8.2m、奥行7.0m。初層の「心空殿」は住宅風、上層の「潮音閣」は方3間(柱間の数が正面・側面とも3つ)の禅宗様(唐様)の仏堂である。
書院造に繋がる和風の住宅風意匠が取り込まれており、東山文化の代表的建築物である。鹿苑寺金閣が文字通り金箔を貼った建物であるのに対し、銀閣には銀箔を貼った痕跡はない(2007年1月5日には科学的調査によって、銀箔が全く検出されなかったことが発表された)
慈照寺の庭園には多くの名石、名木が配され建材にも贅を尽くしていること、当時の東山文化が茶道趣味と禅宗文化を基調にしたものであったことを考えると、当初から銀箔を貼る計画はなかった可能性が高い。
「当初は名前の通り銀を貼る予定だったが、幕府の財政事情のためにできなかった」、「銀箔を貼る予定であったが、その前に義政が他界してしまった」、「当初は銀で覆われていたが、剥がれ落ちてしまった」といった諸説が存在する。ちなみに義政の妻の日野富子は、びた一文たりとも出さなかったという話がある。
銀閣は金閣、飛雲閣(西本願寺境内)と併せて『京の三閣』と呼ばれる。庭園は特別史跡・特別名勝で、錦鏡池(きんきょうち)を中心とする池泉回遊式庭園である。「苔寺」の通称で知られる西芳寺庭園(夢窓疎石作庭)を模して造られたとされるが、江戸時代に改修されており、創建当時の面影はかなり失われていると言われる。「銀沙灘」(ぎんしゃだん)、「向月台」と称される2つの砂盛りも、今のような形になったのは江戸時代後期とされている。なお東方山麓の枯山水庭園は1931年(昭和6年)に発掘されたもので、室町時代の面影を残すとされている>
それにしても銀沙灘と向月台の大きさに驚く。砂盛りや枯山水自体は京都では珍しくもないが、これだけ大きなのは勿論、いまだかつてお目にかかった事がない。
《銀沙灘は月の光を反射させるためとか、向月台はこの上に坐って東山に昇る月を待ったものだとかの俗説があります》
<方丈前には、白砂を段形に盛り上げた銀沙灘や円錐台形の向月台があります。銀沙灘は月の光を反射させるためとか、向月台はこの上に坐って東山に昇る月を待ったものだとかの俗説がありますが、これら二つの砂盛りも室町時代まではとうてい溯り得ず、近世以後の発想ではないかと思われます。しかしこのような奇想天外な行き方は、独創的で他に例がないでしょう>
出典 http://www.shokoku-ji.jp/
と言われるが、現実に目にすると
(ほほぉ~~~)
という溜息しか出ないくらいに、まったく見事なものである。実際に月夜の晩に、NHKがこの銀沙灘と向月台を撮影した番組を観た事があったが、向月台に反射した月光が銀沙灘に落ち、白砂の模様があたかも本物の波のように揺ら揺らと揺らいで見える画面が、なんと幻想的だった事か。銀閣二階の花頭窓から月が顔を出す山を「月待山」と名付けたくらい、どこまでも「月」の魅力に拘ったのが将軍義政だが、我々一般の拝観者が見る事の出来るのは月の隠れている日中のみである。春・秋の特別拝観の旅に感じる事だが、我々がお金を払って見せて貰えるのはどうでも良いところばかりであって、最も肝心なところは滅多に見せて貰えないのである。
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