2003/10/15

大阪城へ(桜紀行part5)


 どうやら雨の一日になりそうなこの日は、大阪へ移動する事に決める。依然として小雨は降り続いていたものの、傘も差さずにビデオカメラを廻し続けていたくらいだから、大した降りではなかった。

大阪城へ来たのは子供時代に親に連れられてと、学生時代にも一度か二度ずつあったと記憶している。子供の時に見た大阪城は、周囲を睥睨するような高みに聳え立っていたが、あのバカデカイ「ツイン21」なるビルを始めとした「大阪ビジネスパーク(obp)」が出来た頃で、無機的なノッポビルに挟まれて肩身が狭い感じになってしまっているのは、なんともカッコ悪い。おまけにいつかの改修で、天守閣を鉄筋コンクリートのガラス張りにしてしまったのは最悪だ。





<大坂城(大阪城)は、摂津国東成郡大坂(現在の大阪市中央区の大阪城公園)にあった安土桃山時代から江戸時代の城である。別称は金城あるいは錦城で、大坂が近代に大阪と表記するように改まったために、現在は大阪城と書くことも多い。通称「太閤さんのお城」とも呼ばれているが、城跡に現存する櫓や石垣などは徳川氏、徳川幕府によるものである。

大坂城は、上町台地の北端に位置する。かつて、この地のすぐ北の台地下には淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると京都に繋がる交通の要衝でもあった。戦国末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に焼失した後、豊臣秀吉によって大坂城が築かれ豊臣氏の居城および豊臣政権の本拠地となったが、大坂夏の陣で豊臣氏の滅亡とともに焼失した。徳川政権は、豊臣氏築造のものに高さ数メートルの盛り土をして縄張を改めさせ、豊臣氏の影響力と記憶を払拭する形で再建したとされる。  幕府の近畿地方、および西日本支配の拠点となった。姫路城、熊本城と共に日本三名城の一つに数えられている


日本三名城に、あの立派な名古屋城が入っていないのは解せない。熊本城は見たことがないから断言は出来ないが、大阪城、姫路城、名古屋城の三城は「三名城」の名に相応しい立派な城ばかりであると言える。現在は、昭和初期に復興された天守と櫓や門などが現存し、城跡は、国の特別史跡に指定されている。  

1583年(天正11年)、安土桃山時代に石山本願寺の跡地である、上町台地に豊臣秀吉が築城を開始した。完成に1年半を要した本丸は、石山本願寺跡の台地端を造成し、石垣を積んで築かれたもので巧妙な防衛機能が施された。秀吉が死去するまでに二の丸、三の丸、総構えが建設され、3重の堀と運河によって囲むなどの防衛設備が施された。天守は絵画史料では外観5層で、外壁などに金箔をふんだんに用いた華麗な姿で描かれている例が多く、それに則した復元案が出されている。大坂城の普請中に秀吉を訪問し、大坂城内を案内された大友宗麟は、大坂城を三国無双と称えた。築城者である秀吉自身は、京都に聚楽第、伏見城を次々に建造し、大坂城よりもむしろそちらに居城した。秀吉死後の1599年(慶長4年)、秀吉の遺児豊臣秀頼が伏見城から完成した大坂城本丸へ移り、また政権を実質的に掌握した五大老の徳川家康も、大坂城西の丸に入って政務を執った。

 『大坂御城御本丸并御殿繪圖』(江戸時代前期)1603年(慶長18年)に徳川幕府が成立した後も、秀頼は大坂城に留まり摂津・河内・和泉を支配していたが、1614年(慶長19年)の大坂冬の陣で家康によって構成された大軍に攻められ、篭城戦を行った。その講和に際して、惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城は落城し、豊臣氏は滅亡した。落城に際して灰燼に帰した大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、1619年(元和5年)に幕府直轄領(天領)に編入された。翌1620年(元和5年)から2代将軍徳川秀忠によって大坂城の再建が始められ、3期にわたる工事を経て1629年(寛永6年)に完成した。

徳川氏の大坂城は豊臣氏の大坂城の石垣と堀を破却して、全体に高さ約1メートルから10メートルの盛り土をした上により高く石垣を積んだので、豊臣大坂城の遺構は地中に埋もれた。また天守など、建物も構造を踏襲せずに造り変えられた。徳川氏の大坂城は、城郭の広さは豊臣時代の4分の1の規模になったが、天守は豊臣氏のものとは位置も変え、総床面積から高さまで豊臣氏の天守を越えるものが上げられた。大坂城をより豪壮な城郭として全く新しく築くことで、豊臣氏の記憶を封じ込め、かつての豊臣氏の勢威を凌駕する徳川氏の威信を日本全国に示そうとしたものといわれている

幕末期の大坂城の櫓幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、2名の大坂定番と4名の大坂加番が警備を担当した。江戸時代には、度々火災による損傷と修復を繰り返した。特に1665年(寛文5年)には落雷によって天守を焼失し、以後は天守を持たない城であった。江戸末期、慶応3129日(186813日)に発せられた王政復古の大号令の後、江戸城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り居城していたが、慶応413日(1868127日)、旧幕府軍の鳥羽・伏見の戦いでの敗北によって慶喜は船で江戸へ退却し、大坂城は新政府軍に開け渡された。この前後の混乱のうちに出火し、城内の建造物のほとんどが焼失した。

再建工事中の天守閣明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用し、城内への民間人の立ち入りは禁じられた。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には兵器工場(大阪砲兵工廠)が設けられ、このため後の太平洋戦争時米軍の爆撃目標となる。終戦後城内の陸軍用地は進駐軍に接収されたが、1947年(昭和22年)に米軍の失火により紀州御殿を焼失した。1948年(昭和23年)の接収解除後は建物の修理が進められ、外堀を含む広域が大阪城公園として整備された。
※出典 Wikipedia

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