2003/10/11

知恩院七不思議(京都桜紀行part1)

 事実上初の京都旅行となった前年春は、4月中旬過ぎという時期で満開の枝垂桜に出くわし

(よし、来年こそは満開のソメイさんを拝みに行くぞ~!)

との決意を胸に、41日から新たに出向先に決まった某お役所には「残務整理があり・・・」とダマクラかして出向開始時期を1週間ずらして貰い、34日でギチギチのスケジュールを立てた。暖冬となったこの年(1998)は、桜の開花が1週間近く早まり331日に出発する。初日は東山廻りで、まずは知恩院へ。

<知恩院は、京都府京都市東山区にある浄土宗総本山の寺院である。山号は華頂山で、詳しくは華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざん ちおんきょういん おおたにでら)と称する。本尊は法然上人像(本堂)および阿弥陀如来(阿弥陀堂)、開基(創立者)は法然である。

浄土宗の宗祖・法然が後半生を過ごし、没したゆかりの地に建てられた寺院で、現在のような大規模な伽藍が建立されたのは、江戸時代以降である。将軍家から庶民まで広く信仰を集め、今も京都の人々からは親しみを込めて「ちよいんさん」と呼ばれている。 四条天皇から下賜された寺号は「華頂山知恩教院大谷寺」という長いものであるが、この名称は、寺の歴史を説明する時などを除いて通常は使われていない。

知恩院は、浄土宗の宗祖・法然房源空(法然)が東山吉水(よしみず)、現在の知恩院勢至堂付近に営んだ草庵をその起源とする。法然は平安時代末期の長承2年(1133年)、美作国(岡山県)に生まれた。13歳で比叡山に上り、15歳で僧・源光のもとで得度(出家)する。18歳で比叡山でも奥深い山中にある西塔黒谷の叡空に師事し、源光と叡空の名前の1字ずつを取って法然坊源空と改名した。法然は唐時代の高僧・善導の著作『観経疏』を読んで「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗の開宗を決意して比叡山を下りた。承安5年(1175年)、43歳の時であった。「専修念仏」とは、いかなる者も、一心に弥陀(阿弥陀如来)の名を唱え続ければ極楽往生できるとする思想である。この思想は旧仏教側から激しく糾弾され、攻撃の的となった。

法然は建永2年(1207年)には讃岐国(香川県)に流罪となり、4年後の建暦元年(1211年)には許されて都に戻るが、翌年の1月、80歳で没した。法然の住房は現在の知恩院勢至堂付近にあり、当時の地名を取って「吉水御坊」、「大谷禅坊」などと称されていた。ここでの法然の布教活動は流罪となった晩年の数年間を除き、浄土宗を開宗する43歳から生涯を閉じた80歳までの長きにわたり、浄土宗の中心地となった。ここに法然の廟が造られ弟子が守っていたが、嘉禄3年(1227年)延暦寺の衆徒によって破壊されてしまう。文暦元年(1234年)、法然の弟子にあたる勢観坊源智が再興し、四条天皇から「華頂山知恩教院大谷寺」の寺号を下賜された。その後も、永享3年(1431年)の火災や応仁の乱などで焼失するが、その都度再興されている。
 現存の三門、本堂(御影堂)を始めとする壮大な伽藍が建設されるのは、江戸時代に入ってからのことである。浄土宗徒であった徳川家康は、慶長3年(1608年)から知恩院の寺地を拡大し、諸堂の造営を行った。造営は2代将軍徳川秀忠に引き継がれ、現存の三門は元和7年(1621年)に建設された。寛永10年(1633年)の火災で、三門、経蔵、勢至堂を残しほぼ全焼するが、3代将軍徳川家光の元でただちに再建が進められ、寛永18年(1641年)までにほぼ完成している。


徳川家が知恩院の造営に力を入れたのは、徳川家が浄土宗徒であることや知恩院25世超誉存牛(ちょうよぞんぎゅう)が松平氏第5代長親の弟であること、京都における徳川家の拠点とすること、徳川家の威勢を誇示し朝廷を牽制することといった、政治的な背景もあったと言われている。

知恩院の境内は、三門や塔頭寺院のある下段、本堂(御影堂)など中心伽藍のある中段、勢至堂、法然廟などのある上段の3つに分かれている。このうち、上段が開創当初の寺域であり、中段、下段の大伽藍は江戸時代になって徳川幕府の全面的な援助で、新たに造営されたものである>

現存する日本の木造建築の門の中では最大の規模といわれる三門に大いに期待し胸躍らせながら向かったが「知恩院前」のバス停で降りてテクテクと歩いて行くと、何故か裏門の方に出てしまった。何しろこの知恩院には、見所が沢山あるのだ。先に触れた山門を筆頭に、大晦日の「行く年来る年」にも出て来た鐘楼は三井寺、平等院と並ぶ「日本三名鐘」にも数え上げられるし、有名な「知恩院七不思議」も見逃せない。

・大鐘楼(重要文化財)
宝仏殿裏の石段を上った小高い場所に建つ。延宝6年(1678年)の建立。日本有数の大鐘で、寛永13年(1636年)の鋳造である。この鐘楼で除夜の鐘を突く模様は、年末のテレビ番組で度々紹介されている。>

・鶯張りの廊下


御影堂から大方丈・小方丈へ至る約550mの廊下で、歩くと鶯の鳴き声に似た音がするため「鶯張りの廊下」と呼ばれ、静かに歩こうとすればするほど音がする。

・白木の棺
三門楼上に安置されている二つの白木の棺で、中には将軍家より三門造営の命を請け、三門完成後に工事の予算が超過したため、責任をとって自刃したと伝えられている大工の棟梁・五味金右衛門夫婦の自作の木像が納められている。

・忘れ傘
御影堂正面軒下に名工・左甚五郎が魔除けに置いたとも、白狐の化身・濡髪童子がおいたとも伝えられる傘で、知恩院を火災から守るものとされている。

・抜け雀
狩野信政が描いた大方丈の菊の間の襖絵で、万寿菊の上に数羽の雀が描かれていたが、あまりにも上手に描かれたので雀が生命を受けて飛び去ったといわれる。

・三方正面真向(まむき)の猫


大方丈の廊下にある杉戸に描かれた狩野信政筆の猫の絵で、どちらから見ても見る人の方を正面からにらんでいるので「三方正面真向の猫」と呼ばれている。

・大杓子


 大方丈入口の廊下の梁に置かれている長さ2.5m・重さ約30kgの大杓子で、阿弥陀仏の大慈悲ですべての人が救いとられるという一切衆生救済を表したもの。


・瓜生石(うりゅうせき)
黒門への登り口の路上にあり、知恩院が建立される前からあるとされる大きな石で、一夜にしてこの石から蔓が延びて花が咲き、瓜が実ったと伝わる。

これら以外にも勿論、重文クラスがズラズラと並ぶ伽藍群も見応え充分である。

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