相変わらず天気は良くないが、なんとか雨の方は持ち堪えている感じである。
すっかり気分を
よくしたところで、レンタサイクルを返しにいった。
「3時間ですから、1000円になります!」
高ーっ!
町の至るところにレンタサイクルのある京都などは1日で1000円が相場なのに、鎌倉はこの1件しかない分だけ暴利だ。ともあれ鎌倉を出て、一路横浜へと。東京にはあまり興味をそそられることのなかったが、日光、鎌倉とともに、この横浜には以前から是非とも来たかったのである。
教えられたとおり山下町で下車すると、目の前に目的の中華街の看板が早速目に入った。
何度か行ったことのある神戸の南京町のようなイメージを勝手に描いていただけに、遥かにスケールの大きいこちらの中華街は随分と立派に見えた。
「横浜中華街」は、神奈川県横浜市中区山下町一帯に所在するチャイナタウンで、以前は「唐人町」や「南京町」と呼ばれていた。華僑の出身地は広東省が比較的多いが、各地に分散している。上海路、中山路、福建路など、地名を冠した路地が交差しており、各路地には当地の出身者が多い。所在地である中区の中国人人口は、6000人を超える。
これは同区で登録されている外国人の約4割にあたる。約0.2平方キロのエリア内に500店以上の店舗があり、日本最大かつ東アジア最大の中華街となっている。日本では、神戸南京町や長崎新地中華街とともに「三大中華街」とされる。
1866年(慶応2年)の横浜新田慰留地から数えると150年弱の歴史をもつことになるが、中華料理街として現在のような発展を始めたのは早くとも1955年(昭和30年)以降であり、それ以前はカフェが主であった。
1859年(安政6年)、横浜が開港すると外国人居留地(一種の租界)が造成され、欧米人とともに多数の中国人買弁(中国人商人や取引仲介者)や外国人外交官の雇い人が来住した。当初、彼らは香港や広東から来ていたため、広東省出身者が多かった。その後、横浜と上海、香港間に定期船航路が開設されると、中国人貿易商も来住し、居留地の一角(現在の山下町)に関帝廟、中華会館、中華学校などを建てていった。これが横浜中華街の原型である。
この頃の商店は日用雑貨店、衣料品店、食料品店などの店が大半で中華料理店は多くなかった。1872年(明治5年)には、柳麺(lau
min、ラウミン)の屋台が出始めていた。
1894年(明治27年)、日清戦争が勃発すると中国人の多くが帰国してしまうが、戦争が終わり1899年(明治32年)に条約改正により居留地が廃止されると、中国人は職業制限を受けたものの、居留地外にも住むことを許された。
袁世凱に追われ日本に亡命した孫文も、この地で華僑にかくまわれながら革命活動を続けている。ただしこの時期は単に外国人街であり、特に中華街というわけではない。例えば1921年(大正10年)の横浜市商工案内によれば、この地区の総店舗数263軒中、日本人店149軒、欧米人店79軒に対して中国人店35軒であり、そのうち中華料理店はわずか5軒であった。
一方、1910年(明治43年)の『名誉鑑』では、有名な広東料理店として5軒を挙げており、1900年以降一挙に中華料理店が増えた。1923年(大正12年)9月1日に発生した関東大震災で、この地区は大打撃を受けて瓦礫と化した。欧米人の多くが帰国してしまったため、やや中国人中心の街へと変っていった。1930年代には完全に復興し、賑わいを見せた。
1932年(昭和7年)の『横浜市史稿・風俗偏』では、南京町で先ず目に入るのは料理店であるとし、何々楼と称する料理店が20軒あまりに達したとしている。
1934年(昭和9年)7月23日の『横浜貿易新報』では「南京街の支那料理」を横浜自慢として紹介している。しかし、1937年(昭和12年)7月7日に勃発した日中戦争で多くの華僑が帰国し、閉店した店も多い。戦後の復興期に横浜港は賑わい、香港との往来も復活した。
2004年(平成16年)2月1日に横浜高速鉄道みなとみらい21線が開業し、終着駅として元町・中華街駅が設置された。駅の名称に「中華街」が入り、東京の渋谷駅から東急東横線の電車が直通運転されることで、中華街のアクセス状況や知名度はさらに向上した。
出典 Wikipedia
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