『吾妻鏡』によると、大仏造立の勧進は浄光なる僧が行ったとされているが、この浄光については他の事跡が殆ど知られていない。大仏が一僧侶の力で造立されたと考えるのは不合理で、造像には鎌倉幕府が関与していると見られるが『吾妻鏡』は銅造大仏の造立開始について記すのみで、大仏の完成については何も記しておらず、幕府と浄光の関係や造立の趣意などは未詳である。
鎌倉時代末期には、幕府の有力者北条(金沢)貞顕が息子貞将(六波羅探題)に宛てた書状の中で、関東大仏造営料を確保するため唐船が渡宋する予定であると書いている(寺社造営料唐船)。しかし、実際に唐船が高徳院(鎌倉大仏)に造営費を納めたかどうかは、これも史料がないため不明である。
大仏は、元来は大仏殿の中に安置されていた。大仏殿の存在したことは、平成12年から13年(2000 - 2001年)にかけて実施された境内の発掘調査によっても、改めて確認されている。
『太平記』には、建武2年(1335年)、大風で大仏殿が倒壊した旨の記載があり『鎌倉大日記』によれば大仏殿は応安2年(1369年)にも倒壊している。大仏殿については従来、室町時代にも地震と津波で倒壊したとされてきた。この津波の発生した年について『鎌倉大日記』は明応4年(1495年)とするが『塔寺八幡宮長帳』などの他の史料から、明応7年(1498年)が正しいと考証されている。
一方、室町時代の禅僧・万里集九の『梅花無尽蔵』によると、文明18年(1486年)、彼が鎌倉を訪れた際、大仏は「無堂宇而露坐」であったといい、この時点で大仏が露坐であったことは確実視されている。
平成12年から13年(2000 - 2001年)の境内発掘調査の結果、応安2年(1369年)の倒壊以後に大仏殿が再建された形跡は見出されなかった。鎌倉大仏が建立されている場所は、元々長谷の「おさらぎ」という地名であったため、鎌倉大仏に限っては「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む場合がある。また、この地に由来のある家系には「大仏」と書いて「おさらぎ」と読む姓がある。北条氏の庶流の中には大仏流北条氏があり、執権を輩出したこともある。
銅造阿弥陀如来坐像(国宝)
像高約11.3メートル(台座を含め高さ13.35メートル)、重量約121トン。角張った、平面的な面相、低い肉髻(にっけい、頭髪部の椀状の盛り上がり)、猫背気味の姿勢、体部に比して頭部のプロポーションが大きい点など、鎌倉期に流行した「宋風」の仏像の特色を示しており、鎌倉時代を代表する仏教彫刻として国宝に指定されている。
また後世の補修が甚大な奈良・東大寺の大仏と比べ、ほぼ造像当初の姿を保っている点も貴重である。像は衣を通肩(両肩を覆う着装法)にまとう。浄土教信仰に基づく阿弥陀像が多く来迎印(右手を挙げ、左手を下げる)を結ぶのに対し、本像は膝上で両手を組む定印(じょういん)を結んでおり、真言ないし天台系の信仰に基づく阿弥陀像であることがわかる。
像の原型の作者は不明。鋳造には河内の鋳物師・丹治久友が関わっていることが、以下の史料から判明する。久友は、文永元年(1495年)に鋳造した大和吉野山蔵王堂の鐘銘(鐘自体は現存せず)において「新大仏鋳物師丹治久友」と名乗っており、同年鋳造の東大寺真言院鐘の銘にも「鋳物師新大仏寺大工」とある。
鋳造は体部が7段、頭部は前面が5段、背面が6段に分けて行われていることが、像の内外に残る痕跡からわかる。材質は通常「銅造」とされているが、正確には青銅(銅、錫、鉛等の合金)である。
昭和34年から36年(1959 - 1961年)にかけて行われた修理・耐震補強工事の際、頭部内面から試料を採取して電子線マイクロアナライザーによる材質調査が行われ、本像の金属組成は鉛の含有量が多いことが判明した。採取部位によって差異があるが、鉛の含有比率は全体の10%以上となっている。この成分比率から、本像の鋳造に際しては宋から輸入された中国銭が使用されたと推定されている。
なお本像の重量(121トン)は、上述の1959年から1961年にかけての耐震補強工事における基礎データ収集の一環として、ジャッキで大仏を持ち上げその下に秤を入れて、実際に計量されたものである。鉛の比率が高いことから、像表面に鍍金(金メッキ)を行うことは困難であったと推定され、造像当初は表面に金箔を貼っていたとされており、現在でも右頬に金箔の跡が確認できる。
像内は空洞で人が入ることができ、一般拝観者も大仏内部を見学することができる(一度に30人以上は入場できない)。内部から見ると、首の括れに相当する場所が変色しているが、これは補強を行ったさいに塗布された繊維強化プラスチックによるものである。
出典 Wikipedia
《日本三大仏》は奈良・東大寺の毘盧遮那仏に鎌倉・高徳院の太郎サン、そして岐阜・正法寺のカゴ大仏(富山の高岡大仏といわれる事もある)と言われているが、これでまだお目にかかっていないのは、最も近いお隣の岐阜大仏だけとなった。
これまで大仏様は何体も観てきたが、確かに鎌倉の太郎サマは噂に違わぬ男前であった(というか性別がわからないので、端正な顔立ちと表現すべきか)
金20円也を払い、胎内巡り(といっても、ほんの一部しか観られないが)をするが、ここもやはりお子様団体が犇いているため、ここは早々に切り上げ次の銭洗い弁財天へと向かう事にする。
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