現在、城内には大手門、焔硝蔵、多聞櫓、千貫櫓、乾櫓、一番櫓、六番櫓、金蔵、金明水井戸屋形、桜門などの遺構が残っており、国の重要文化財に指定されている。また現存する石垣も、多くが当時の遺構である。
江戸時代の大坂城は、徳川幕府の天下普請によって再築された。石垣石は瀬戸内海の島々(小豆島・犬島・北木島など)や兵庫県の六甲山系(遺跡名:徳川大坂城東六甲採石場)の石切丁場から採石された。また遠くは、福岡県行橋市沓尾からも採石された。石垣石には、大名の所有権を明示するためや作業目的など、多様な目的で刻印が打刻されている。
徳川氏は大坂城を再建するにあたり、豊臣大坂城の跡を破却して盛り土した上に縄張を変更して築城したため、現在大坂城址で見ることができる遺構や二重の堀、石垣は、みな江戸時代の徳川大坂城のものである。大坂の陣で埋め立てられた惣堀を含む豊臣大坂城の遺構は、大阪城公園や周辺のビルや道路の地下に埋没したままで、発掘も部分的にしか行なわれていない。ただ、村川行弘(現・大阪経済法科大学名誉教授・考古学)らによる昭和中期の大坂城総合調査により、徳川氏本丸の地下からは秀吉時代の石垣が見つかっており、現在は普段は一般には開放されていない蓋付きの穴の底に保存されている。
2003年(平成15年)には、大手前三の丸水堀跡の発掘調査で堀底からは障壁のある障子堀が検出され、堀の内側の壁にトーチカのような遺構も見つかった。
この発掘によって、堀自体が大坂冬の陣の時に急工事で埋められたことを裏付ける状況証拠が確認されている。
※出典 Wikipedia
※出典 Wikipedia
かつて自分の中にあったイメージでは、姿の美しさでは「姫路城」、「名古屋城」と並ぶ「三大美城」として仰ぎ見たものだったが、いつの間にやら妙チキリンなガラス張りの博物館のようになってしまい「城の美」とは大きく懸け離れてしまったのは、返す返すも惜しまれてならない。
ところで大阪城といえば、築城した秀吉がシンボルだからどのみやげ物屋の湯呑みやら灰皿、或いはキーホルダーにも太閤さんの顔ばかりが描いてあるが、実際には現在立っているお城は、後から天下を取った家康が秀吉の築いた城を壊して地中に埋めてしまい、その上に自ら新しく立て直したものらしい。しかしその家康自慢の立派な城も、随分と妙な具合に勝手にアレンジされてしまったものである。
城そのものには往時を偲ぶ面影はすっかりなくなってしまったものの、城内や広い大阪城公園一帯に咲き乱れる桜の美しさだけは変わらず健在である。雨に洗われた小ぶりな桜の花びらが、一際美しく見えた。
大阪市北区の大川(旧淀川)沿いにある本局には、約120品種、約400本の桜が植えられている。本局のあった土地には元々藤堂家の大坂屋敷があり、同家の植栽していたサクラの樹木が造幣局にも引き継がれた。造幣局長であった遠藤謹助が「役人だけが花見をしていてはいけない」と、1883年(明治16年)から一般にも開花したサクラを公開することになったのが始まり。大阪大空襲で桜の多くが焼失したが、職員によって蒐集され多品種の桜並木が復元された。今では大阪の春の伝統行事として、毎年4月中旬から下旬にかけての開花時期には一般開放され、多くの人で賑わう。
この観桜のための一般公開は、南側のゲート(川崎橋)から入場して、北側のゲート(銀橋)から抜ける一方通行となるため「通り抜け」と呼ばれている。この通り抜けは夜まで行われるため、日没後の夜桜も鑑賞できる。現在ではサクラの品種といえば「ソメイヨシノ」しか知られなくなったため、毎年「今年の桜」として一品種を選定して紹介している。
桜を見ながら酒を呑んだ下地が出来上がっていたところで、夜には久々に訪ねた居酒屋「百番」の旨い料理に益々盃が重なり、翌日の京都観光に備えて嵯峨野の公共の宿に着いた時には、したたかに酔っ払っていた。懐かしい畳の香りに誘われるように寝転がり
(風呂に入りに行くのも億劫だ・・・)
などと酔った頭でボンヤリ考えていたが、大浴場に定められている入浴時間が迫るに連れ
(折角だから、やっぱり入っておこうか・・・)
と重い身体を引きずって入ったのが、結果的にはプラスとなった。じっくり30分くらいかけて風呂に入ったおかげで、酔いも疲れも一気に吹き飛んでしまったのである。
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