2003/10/16

大阪城の歴史(桜紀行part6)


 1950年(昭和25年)のジェーン台風により、またもや損傷を受けたことから、本格的な補修事業が開始された。併せて学術調査も行われ、1959年(昭和34年)には地下から豊臣時代の遺構が発見された。本丸内の陸軍師団司令部の旧施設は、一時大阪府警本部の庁舎(後に市立博物館)として使用され、石垣に囲まれた一角では拳銃の射撃訓練も行われた。工廠跡は長らく放置され、残された大量の鉄や銅の屑を狙う「アパッチ族」が跳梁し、小松左京や開高健の小説の舞台ともなった。

1983年(昭和58年)、「大阪築城400年まつり」に合わせ、国鉄大阪環状線に「大阪城公園駅」が新設され、大阪城ホールも開館された。残されていた工廠跡にも次々と大企業のビルが建ち並び、城の北東側に「大阪ビジネスパーク」が出現した。復興天守は現在も健在であり、大阪市の象徴として聳え立ち、周囲には大阪城公園が整備されている。

2007年(平成19年)、大阪城の不動産登記に関して、建物としては未登記であり登記上の土地の所有者は旧陸軍省であるということが判明した。実務上は建物の所有者は大阪市であり、土地は国からの借用であるということになっている。台地北端に立地する大坂城では、北・東・西の3方は台地上にある本丸から見て低地になっている。北の台地下には淀川とその支流が流れており、天然の堀の機能を果たすとともに、城内の堀へと水を引き込むのに利用された。

大坂城は豊臣氏が築城した当初の城と、その落城後に徳川氏が再建した城とで縄張や構造が変更されている。現在、地表から見ることができる縄張は、総て江戸時代のものである。ただし堀の位置、門の位置などは秀吉時代と基本的に大きな違いはないとされている。縄張は輪郭式平城であり、本丸を中心に大規模な郭を同心円状に連ね、間に内堀と外堀を配する。秀吉は、大坂の市街から天守がよく見えるよう天守の位置、街路などを工夫したとも伝えられている。台地の北端を造成して築城した大坂城の防衛上の弱点は大軍を展開できる台地続きの南側で、西方から南方を囲むように惣堀がめぐらされ、冬の陣直前には玉造門の南方に真田信繁により半月形の出城「真田丸」が構築された。果たして冬の陣は、この方面から攻めかかる徳川方と篭城の豊臣方との間で激戦となった。

 大坂城の天守は現在までに三度造営されているが、いずれも外観、位置等が異なる。初代天守は、豊臣大坂城のものと見られている。平面図「本丸図」では、山里曲輪とを隔てる本丸の詰の石垣沿い、本丸の北東隅に描かれている。天守台一杯には建てられず、若松城天守のように余地を残して天守曲輪を持っていたと考えられている。天守は、複合式もしくは連結式望楼型56階地下2であったと考えられており、外観は黒漆塗りの下見板張りで漆喰壁部分も灰色の暗色を用いて、金具や瓦(金箔瓦)などに施された金を目立たせたと考えられている。一説には、壁板に金の彫刻を施していたというものもある。なお、5階には黄金の茶室があったと言われている。

大坂夏の陣図屏風(黒田屏風)、大坂冬の陣図屏風、大坂城図屏風などが参考にされている場合が多い。特に大坂夏の陣図と冬の陣図では天守の姿が大きく異なっているため、夏の陣のものは再建または改築されたものであるといい、それに沿った復元案も研究者などから出されている。黒田屏風の姿に近い宮上茂隆の復元案は、大阪城天守閣内の豊臣大坂城再現模型のモデルになっている。元和期大坂城天守は、願生寺指図を元にしている。

徳川氏が再建した大坂城の天守は、現在見られる復興天守(大阪城天守閣)の位置とほぼ同じである。江戸城の本丸・初代天守の配置関係と同配置に建てられたと見られている。天守台は大天守台の南に小天守台を設けているが、小天守は造られずに天守曲輪のような状態であった。天守へは本丸御殿からの二階廊下が、現在の外接エレベータの位置に架けられていた。建物は独立式層塔型55階地下1で、江戸城天守(初期)を細身にしたような外観で、白漆喰塗籠の壁面であったとみられている。最上重屋根は銅瓦(銅板で造られた本瓦型の金属瓦)葺で、以下は本瓦葺であったという。高さは天守台を含め、58.32メートルあったとみられている。このことから、江戸城の初代天守の縮小移築との説もある。  

天守の図面は、内閣文庫所蔵の「大坂御城御天守図(内閣指図)」と、大坂願生寺所蔵の「大坂御天守指図(願生寺指図)」の2つがある。2つの指図は相違しており、内閣指図の外観は二条城天守とほぼ同じ破風配置で、願生寺指図の外観は名古屋城天守や江戸城天守とほぼ同じ破風配置である。復興天守は大阪城天守閣の夜景現在、大坂城(大阪城)を象徴し大阪市の象徴となっている。  

1928年(昭和3年)、当時の大阪市長關一によって再建が提唱され、市民の寄付金により1931年(昭和6年)に竣工した。この市民の寄付には申し込みが殺到し、わずか半年で目標額の150万円(現在の600億から700億円に相当する)が集まった。昭和以降、各地で建てられた復興天守の第一号である。建物は、徳川大坂城の天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎をした上に、鉄骨鉄筋コンクリート造にサスペンション工法を用いて建てられた。高さは54.8メートル(天守台・鯱を含む)で、復興天守の中は博物館「大阪城天守閣」として利用されている。外観は、絵図(大坂夏の陣図屏風)を基に古川重春が設計、意匠は天沼俊一、構造は片岡安が担当した。設計の古川は、建築考証のために各地の城郭建築を訪ね、文献などの調査を行って設計に当たっており、その様子は古川の著書『錦城復興記』に記されている。

大坂城の天守は、豊臣大坂城と徳川大坂城のそれぞれで建っていた場所も外観もまったく異なるが、復興天守閣では初層から4層までは徳川時代風の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代風に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵を描いている。この折衷に対しては諸々議論があり、豊臣時代の形式に統一するべきとする意見もある。

1995年(平成7年)から1997年(平成9年)にかけて、平成の大改修が行われた。この時、建物全体に改修の手が加えられ、構造は阪神・淡路大震災級の揺れにも耐えられるように補強され、外観は壁の塗り替え、傷んだ屋根瓦の取り替えや鯱・鬼瓦の金箔の押し直しが行われた。豊臣時代・徳川時代の天守がいずれも30数年で焼失したのに比べ、昭和の天守は建設後70年を超え、最も長命の天守になった。1997年(平成9年)、国の登録有形文化財に登録されている。
※出典 Wikipedia

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