2003/10/03

摩天楼から800年を遡り鎌倉大仏を目指す(東京出張旅行記part2)

これまで何度となく足を運んでいる京都・大阪方面に行く時には専ら観光目的とあって、朝8時辺りの新幹線に乗るために自由席では座れたためしがなかったが、この日はゆっくりの出発。しかしながら

9時過ぎの東京行きだから、空席の一つや二つはあるだろう)

という考えは甘く、またしてもデッキでの立ちんぼを余儀なくされる仕儀となった。

 

いつもながらに、ガラの悪そうな連中が陰気な顔を並べている自由席車両のデッキは回避し、グリーン車のデッキの方に移動すると、時折携帯をかけに来るサラリーマン風以外は誰もおらず、久しぶりの東海道の風景をボンヤリと眺めながら揺られる事2時間、昼前に東京に到着した。

 

車窓から見えていた空模様は雨が降ったり止んだりを繰り返し、時に大雨となって気を揉んだが、東京駅に着いた時には雨は上がっていた。しかしながら、東京は思っていた以上に寒い。前日まで暑い名古屋に居た時は、上着なしでジッとしていても汗ばむほどだったのに、この日の東京は雨のせいもあろうが上着を着ていてさえ肌寒さを感じる。

 

招待された某ベンダー系大手企業との約束は午後3時だから少し時間があるが、未知の土地だから早めに場所を特定しておかなければならないと思うとあまり遠くまで足を延ばすわけにもいかず、まずは皇居をブラリと散策してから秋葉原を冷やかしに行く。

 

狭い路地に、ゴチャゴチャと小さな店が迷路のように立て込んでいるところは、名古屋でいえば大須の商店街を思わせるが、こういった狭くてゴミゴミとした空間は、あまり好きでない。

 

「松屋」で焼肉定食の昼食を済ませると、見知らぬ町をぶらぶらと歩いてみた。 住所表記などから、神田周辺らしい。そうして当てもなくただぶらついている内に、いつの間にやら時間は2時を過ぎていた。

 

慌てて電車に飛び乗るが、客先へ向かう電車の乗り継ぎを間違えたりして戸惑った挙句、どうにか現地に到着したのは35分前とギリギリだった。

 

無事、面接を終えて社を出た時は5時近くになっており、いつの間にか断続的に降っている様子の雨に加え、用事を終えて緊張感が一気に緩んだせいかすっかり遠出をする意欲はなくなり、知人お奨めのお台場までわざわざモノレールを乗り継いで行くのは億劫に。といって、こんな早い時間からホテルに篭っていても、退屈は目に見えている。気まぐれに新宿で食事などを思いつくが、駅を降りた途端の人混みで一気に疲れを感じてしまった。

 

前夜の予約では都内のホテルが軒並み満室で、10件くらい電話した末にようやく空きの見つかった蒲田のホテルに入り、コンビニで買ってきた弁当を食べると、近くにあるネットカフェへ直行。『10ちゃんねる』をどうにかupし、風呂に入ってさあ寝ようかというところでホテルのエアコンがやたらに寒く、ガタガタ震えることになるハメとなった。

 

明けて2日目は、予定通り横浜・鎌倉方面へと向かう。天気予報では前日に続きこの日も終日雨との事で、朝からどんよりとした厚い雨雲に覆われていたが、雨だけはなんとか持ち堪えている様子だ。それにしても何もわからないままに予約したホテルの、蒲田という立地が巧い具合に都内では最も横浜寄りだったのは、なんともラッキーであった。

 

帰りの足を考え、先に不便な鎌倉の方から廻る事にする。鎌倉駅に着くと、真っ先にレンタサイクルの店が目に入ったので早速借りようとするが、坂の上にある店の前で腕組みをして辺りを睥睨するような無愛想なオヤジと、茶髪の兄ちゃんのデカイ態度が気に食わず歩く事に決めた。

 

いい加減に見当をつけて歩いていると、由比ガ浜の海岸が見えてくる。



海岸沿いを稲村ガ崎方面に向かい少し歩くと、さすがに風が冷たく肌寒かった。

 

高徳院」は、神奈川県鎌倉市長谷にある浄土宗の寺院で、一般には「鎌倉大仏」の通称で知られる。本尊は「鎌倉の大仏」、「長谷の大仏」と称される阿弥陀如来像(国宝)




山号は大異山で、正式には「大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)」という。

 

2004年(平成16年)227日、境内一帯が「鎌倉大仏殿跡」の名称で国の史跡に指定された。

 

大仏の造立経緯や、大仏殿の倒壊時期については諸説ある。高徳院は鎌倉のシンボルともいうべき大仏を本尊とする寺院であるが、開山、開基は不明であり、大仏の造像の経緯についても史料が乏しく不明な点が多い。

 

寺の草創については、鎌倉市材木座の光明寺奥の院を移建したものが当院だという説もあるが、定かではない。初期は真言宗で、鎌倉・極楽寺開山の忍性(にんしょう)など密教系の僧が住持となっていた。のち臨済宗に属し建長寺の末寺となったが、江戸時代、正徳年間(1711 - 1716年)に江戸・増上寺の祐天上人による再興以降は浄土宗に属し、材木座の光明寺(浄土宗関東総本山)の末寺となっている。「高徳院」の院号を称するようになるのは、浄土宗に転じてからである。

 

『吾妻鏡』には、暦仁元年(1238年)、深沢の地(現・大仏の所在地)にて僧・浄光の勧進によって「大仏堂」の建立が始められ、5年後の寛元元年(1243年)に開眼供養が行われた、という記述がある。同時代の紀行文である『東関紀行』の筆者(名は不明)は、仁治3年(1242年)、完成前の大仏殿を訪れており、その時点で大仏と大仏殿が3分の2ほど完成していたこと、大仏は銅造ではなく木造であったことを記している。

 

一方、『吾妻鏡』には、建長4年(1252年)から「深沢里」にて金銅八丈の釈迦如来像の造立が開始された、との記事もある。「釈迦如来」は「阿弥陀如来」の誤記と解釈し、この1252年から造立の開始された大仏が、現存する鎌倉大仏であるとするのが定説である。

 

なお、前述の1243年に開眼供養された木造の大仏と、1252年から造り始められた銅造の大仏との関係については、木造大仏は銅造大仏の原型だったとする説と、木造大仏が何らかの理由で失われ、代わりに銅造大仏が造られたとする説とがあったが、後者の説が定説となっている。

出典 Wikipedia

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