2003/10/13

高台寺の文化財(京都桜紀行part3)



 ようやく知恩院を出ると、駐車場を挟んだ向かい側が円山公園である。この日も相変わらずの人でごった返し、花見客目当ての屋台が軒を連ねていた。しかも幸運な事には、この暖冬のおかげかソメイヨシノと一緒に、半月遅れで満開となるはずの枝垂桜までがほぼ満開になっていた事で、滅多に見ることの出来ない僥倖といわれる《枝垂れとソメイヨシノの競演》を奇跡的に堪能出来たのである。

そのあまりの息を飲むような美しさにすっかり目を奪われ、座敷を陣取って缶ビールを買い求めて飲んでいると、前の座敷に金髪の外人サンがやはり缶ビールを片手に、ノンビリと寝転がって寛いでいた。

(本来、花見とはああしてまったりと楽しむものなんだよな・・・)

と、予定していたギチギチのスケジュールを見直し、改めて座敷に腰を落ち着け直してビールのお替わりを頼んだ。円山公園の屋台のたこ焼きでビールを呑みながら満開の桜を堪能した後は、八坂神社を通り抜けて高台寺を訪ねる。北政所ねね終焉の地として、女性に人気の高い寺院である。

<高台寺は、京都府京都市東山区にある臨済宗建仁寺派の寺院。山号は鷲峰山(じゅぶさん)、寺号は詳しくは高台寿聖禅寺と称する。豊臣秀吉の正室である北政所(高台院)が秀吉の冥福を祈るため建立した寺院であり、寺号は北政所の落飾(仏門に入る)後の院号である高台院にちなむ。釈迦如来を本尊とする禅宗寺院であるとともに、秀吉と北政所を祀る霊廟としての性格をもった寺院である。霊屋(おたまや)の堂内装飾には桃山様式の蒔絵が用いられ、北政所所持と伝えられる蒔絵調度類を多数蔵することから「蒔絵の寺」の通称がある。

豊臣秀吉が病死したのは 慶長3年(1598年)であった。秀吉の正室である北政所(ねね、出家後は高台院湖月尼)は、秀吉の菩提を弔うための寺院の建立を発願し、当初は北政所の実母・朝日局が眠る康徳寺(京都の寺町にあった)をそれに充てようとしたが、手狭であったため東山の現在地に新たな寺院を建立することになった。秀吉没後の権力者となった徳川家康は北政所を手厚く扱い、配下の武士たちを高台寺の普請担当に任命した。中でも普請掛・堀直政の働きは大きかったようで、高台寺の開山堂には直政の木像が祀られている。

 創建当時の高台寺の仏殿は前述の康徳寺の堂を移築・改造したものであり、方丈、茶室などは伏見城から移築したもので、伏見城の化粧御殿が移築され北政所の居所とされた。高台寺の西側にある塔頭(たっちゅう、付属寺院)の圓徳院がその跡で、北政所は慶長10年(1605年)から寛永元年(1624年)に没するまで、ここに住んだ。高台寺の開山は慶長11年(1606年)で、当初は曹洞宗の寺院であった。

寛永元年7月(1624年)、高台寺は臨済宗寺院である建仁寺の三江紹益を中興開山に招聘。この時、高台寺は曹洞宗から臨済宗に改宗している。北政所の兄・木下家定は建仁寺及び三江紹益と関係が深く、家定の七男が三江紹益の元で出家していることも、この改宗と関連すると言われる。なお、北政所は同じ寛永元年の9月に没している。高台寺は、江戸時代後期の一時期、御陵衛士(高台寺党)の屯所となったこともある。その後、近世末期から近代に至る数度の火災で仏殿、方丈などを焼失。創建時の建造物で現存しているのは、三江紹益を祀る開山堂、秀吉と北政所を祀る霊屋(おたまや)、茶室の傘亭と時雨亭などである>

開山堂
時雨亭創建当時存在した仏殿は焼失後再建されておらず、方丈が中心的な堂宇となっている。方丈の西に庫裏、北に書院があるが、いずれも創建当時のものではない。境内東側には偃月池・臥龍池という2つの池をもつ庭園が広がり、開山堂、霊屋、茶室などが建つ。また、境内からやや離れて黒門が建つ。

庫裏
拝観順路入口に位置する。内部は通常非公開。玄関から垣間見える「夢」と書かれた衝立が印象的である。

方丈
庫裏の右手に建つ。大正元年(1912年)の再建。創建当初の方丈は、文禄の役後に伏見城の建物を移築したものであった。

勅使門
方丈の南正面に位置する。大正元年(1912年)に、方丈とともに再建された。

書院
方丈の背後に建つ。

開山堂(重要文化財)
書院の東方、庭園内に建つ入母屋造本瓦葺きの禅宗様の仏堂。慶長10年(1605年)の建築。元来、北政所の持仏堂だったもので、その後、中興開山の三江紹益の木像を祀る堂となっている。堂内は中央奥に三江紹益像、向かって右に北政所の兄の木下家定とその妻・雲照院の像、左に高台寺の普請に尽力した堀直政の木像を安置している。この堂の天井は、秀吉の御座舟の天井と、北政所の御所車の天井を用いたものという。

観月台(重要文化財)
書院と開山堂を結ぶ、屋根つき廊の途中にある小規模な建築である。ここから北政所は、亡き秀吉をしのびながら月を眺めたという

臥龍廊(がりょうろう)
開山堂と霊屋(おたまや)を結ぶ屋根付きの階段、龍の背に似ているところからこの名が付けられた。


霊屋(重要文化財)


開山堂の西方、一段高くなった敷地に建つ、宝形造檜皮葺きの堂。慶長10年(1605年)の建築。内部は中央の厨子(平素、扉を閉じている)に大随求菩薩(だいずいぐぼさつ)像を安置し、向かって右の厨子には豊臣秀吉の坐像、左の厨子には正室・北政所の片膝立の木像がそれぞれ安置されている。厨子の扉には秋草、松竹など、須弥壇には楽器などの蒔絵が施されている。厨子の目立たぬところに蒔絵の作者の名が線描きされており、その点でも貴重。寺に所蔵される、北政所所用と伝える調度品類にも同じ様式の蒔絵が施され、これらを高台寺蒔絵と称している。

高台寺蒔絵の特色は、金の平蒔絵(文様部分の漆を盛り上げずに、平滑に仕上げたもの)を主体に秋草などの絵画的な文様を描くことである。なお北政所は、自身の像の約2m下に葬られている。

表門(重要文化財)

茶室傘亭(安閑窟)(重要文化財)

境内東奥の小高い場所に位置する。伏見城から移築したものとされ、千利休の作、秀吉好みの茶室と伝える(ただし伏見城建設は、利休の自刃後)。宝形造茅葺きの素朴な建物で、内部の天井が竹で組まれ、その形が唐傘に似ている所から傘亭の名がある。

時雨亭(重要文化財)
傘亭の南隣にあり、傘亭との間は屋根付きの土間廊下で繋がれている。珍しい2階建ての茶室で、2階南側の上段の間は柱間に壁や建具を設けない吹き放しとする。傘亭同様伏見城からの移築とされ、千利休の作、秀吉好みと伝える。伏見城「御学問所」に擬する説もある。

遺芳庵
方丈・書院の背後にある田舎屋風の茶室で、近世初期の茶人・灰屋紹益が夫人の吉野太夫をしのんで建てたものという。一畳台目の小規模な茶席で、炉は逆勝手向切りとする。吉野窓と称する、壁一杯に開けられた丸窓が特色である。


庭園(史跡・名勝)
小堀遠州作とされ、しだれ桜と萩の名所。石組みの見事さは、桃山時代を代表する庭園として知られる。塀のからは霊山観音も見える。

小堀遠州作の庭園をぐるりと一周すると、枯山水の庭に枝垂桜が東山三十六峰を背景に満開に咲き誇っていた。

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