京都御苑は、京都府京都市上京区にある国民公園。京都御所の周囲の地区を指す。
明治天皇が明治2年(1869年)東京へ移った後、公家屋敷などが広がっていた京都御所周辺は荒廃し、この状況を嘆いた天皇は、明治10年(1877年)御所の保存を命じた。これを受け、京都府が火災延焼を防ぐため、御所周辺の空家となった公家屋敷を撤去して整備したのが京都御苑の始まりである。昭和24年(1949年)には、国民公園として広く開放された。現在は京都御所、仙洞御所、京都大宮御所の築地内は宮内庁が、2005年4月に開館した京都迎賓館は外務省が、それ以外は環境省が管理している。
今出川通(北側)、烏丸通(西側)、丸太町通(南側)、寺町通(東側)に囲まれた範囲で63ヘクタールの広さである。多くの木々が生い茂る公園内には、京都御所、仙洞御所、京都大宮御所、宮内庁京都事務所、皇宮警察本部京都護衛署などの宮内庁・皇宮警察関連の施設をはじめ、公家屋敷の遺構、公園の管理を行う環境省京都御苑管理事務所のほか、グラウンドやテニスコートもあり、市民の憩いの場になっている。
蛤御門
蛤御門・弾痕上記の蛤御門は元々開かずの扉であったが、1788年の天明の大火の際に初めて開門された。この為、「炎で貝が開く」ことの比喩で蛤御門と呼ばれるようになった。また、1864年(元治元年)に尊王攘夷派(長州藩)と徳川幕府(会津藩)の戦いである禁門の変(蛤御門の変)が勃発した。現在でも、この戦いの傷跡である銃弾の跡が門に残されている。
公家町の遺構(みどころ)
御所および仙洞御所以外にも、京都御苑には公家の邸宅の遺構が数多く残る。宮家のものとしては、南西部には閑院宮家の邸宅が保存されており、北部には桂宮家の邸宅の築地塀と表門と勅使門が残る(内部の建物群は、二条城に移築されている)。桂宮家は現在非公開であるが、閑院宮家と同じく庭園と池が残っている。
西側中央部に、元は女院の御所で後に嘉陽宮家が一部を使用していた邸宅の庭園の遺構が残り、曲水の宴を催すことができたであろう小川がある。出水の小川と呼ばれている。
公家の邸宅内にあった鎮守社や井戸も、御苑内各所に残る。また、五摂家の近衛家や九条家の庭園の池である近衛池や九条池は善く保存されており、かつての公家の生活を偲ぶことができる。
その他
御所の細道公園内では、のんびりと散歩を楽しむ人やバードウォッチングをする人もいる。御苑の北隣には、同志社大学と同志社女子大学(両校とも今出川キャンパス)があるため、ベンチで寝転ぶ学生の姿をよく見かける。また、住民の通り抜けルートにもなっているが、通路部分は舗装されている訳ではなく砂が敷き詰められているため、自転車では走りづらい。しかし、自転車の走行跡が砂地に出来て、走りやすくなっている部分もある。この走行跡は御所の細道と呼ばれる事がある。ただし、走行跡は自転車一台分の幅しかないため、対向車が来た場合は譲り合う光景が見られる。
公園内は、京都府警や皇宮警察が常に見回りをしていて、京都御所や仙洞御所の塀に近づくとセンサーが反応し、すぐに注意される。
相国寺(しょうこくじ)は、京都市上京区にある臨済宗相国寺派大本山の寺院。山号を万年山と称し、詳しくは「万年山相国承天禅寺」と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は足利義満、開山は夢窓疎石である。
足利将軍家や伏見宮家および桂宮家ゆかりの禅寺であり、京都五山の第2位に列せられている。相国寺は五山文学の中心地であり、画僧周文や雪舟は相国寺の出身である。また、京都の観光名所として著名な金閣寺(鹿苑寺)、銀閣寺(慈照寺)は、相国寺の境外塔頭(けいがいたっちゅう)である。
室町幕府3代将軍足利義満は、いわゆる「花の御所」の隣接地に一大禅宗伽藍を建立することを永徳2年(1382年)に発願。竣工したのは10年後の明徳3年(1392年)であった。義満は、禅の師であった天龍寺の春屋妙葩(しゅんおくみょうは、1311-1388)に開山(初代住職)となることを要請したが、春屋はこれを固辞。春屋の伯父であり、師である高僧・夢窓疎石(1275-1351)を開山とするなら、自分は喜んで第2世住職になる、という条件でようやく引き受けた。足利義満が伽藍建立を発願する30年以上前に死去している夢窓疎石が開山とされているのは、このような事情による。春屋妙葩も相国寺伽藍の完成を見ずに、嘉慶2年(1388年)没している。
相国寺は京都最大の禅宗寺院のひとつとして、また五山文学の中心地として栄えたが、度々火災に見舞われた。伽藍完成から2年後の応永元年(1394年)に全焼。義満による七重大塔も数年で焼失したが、七重大塔は高さ106mを誇り、1929年の依佐美送信所鉄塔(250m)竣工まで、約530年間高さ歴代日本一の記録は破られなかった。
足利義満没後の応永32年(1425年)に再度、全焼している。応仁元年(1467年)には、相国寺が応仁の乱の細川方の陣地となったあおりで焼失。天文20年(1551年)にも、管領細川家と三好家の争いに巻き込まれて焼失。ここまでで都合4回焼失している。
天正12年(1584年)、相国寺の中興の祖とされる西笑承兌(せいしょうじょうたい)が住職となり、復興を進めた。現存する法堂(はっとう)は、この時期に建立されたものである。その後も元和6年(1620年)に火災があり、天明8年(1788年)の「天明の大火」で法堂以外の殆どの堂宇を焼失した。現存の伽藍の大部分は、19世紀初めの文化年間の再建である。
伽藍
宣明境内は京都御所の真北に位置し、同志社大学に隣接している。最盛期には東は寺町通り、西は大宮通り、南は一条通り、北は上御霊神社との境までが相国寺の寺域であった。応仁の乱による焼失後、三門と仏殿は再建されることなく、近世以降は法堂が仏殿(本尊を安置する堂)を兼ねている。
法堂(はっとう、重文)-「無畏堂」とも言い慶長10年(1605年)、豊臣秀頼の寄進により再建された。日本にある法堂建築としては最古のものである。天井の龍の絵は、狩野光信による。特定の場所で手を打つと反響するため、鳴き龍と呼ばれる。
開山塔(開山堂)- 開山夢窓疎石の像を祀る堂で、桃園天皇の皇后・恭礼門院の御殿を文化4年(1807年)に移築したもの。
方丈 - 文化4年(1807年)の再建。
庫裏(くり)- 同じく文化4年(1807年)の再建。
承天閣(じょうてんかく)美術館 - 相国寺と関連寺院(金閣寺など)の文化財を収蔵展示する施設で、1984年に開館した。
宣明(浴室)- 1400年頃創建、現在のものは慶長4年(1596年)の再建。蒸気浴をしながら、ひしゃくで湯をかけて入浴を行ったとされる。
出典 Wikipedia
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