朱雀門(すざくもん)は、古代、平城京や平安京といった条坊都市の宮城(大内裏)において南面する正門。宮城の12の門のうち、最も重要な門であった。「しゅじゃくもん」とも。
中国の条坊制を模範に造営された古代都城では、中央北辺に宮殿、官衙からなる宮城が置かれた。平城京では平城宮、平安京では平安宮などといい、大内裏とも呼ばれた。大内裏には四方に12の門が備えられ、各々有力氏族の姓が付与されていた。
南門は「天子南面す」というように、皇宮より京師を睥睨する最も重要な門であり、朝廷の有力氏族、大伴(おおとも)氏の姓が付けられ「大伴門」と呼ばれていた。714年(和銅7年)これを漢風に改め、四神において南方を守護するとされる朱雀の名を冠したものとした。朱雀門から、都城正門の羅城門に続く大路を朱雀大路という。
長岡京や平安京でも同じ名を冠した門を宮城正門とし、朝廷の正庁たる朝堂院の正門であった応天門などと並んで最重要視されたが、大内裏の衰微に従い次第に荒廃し、ついには鬼や盗賊が住むといわれるほどに荒れ果てたという。
平安宮朱雀門は、現在の京都市二条千本通にあったといい、旧跡には小さな石碑が立つのみである。平城宮の朱雀門は1997年、考古学的研究と奈良県下の寺社に残る門を参考にして、五間三戸の二重門がかつての位置に等寸復元されている(平城宮跡)。フジテレビのドラマ「鹿男あをによし」の撮影にも使われた。
平城京の北端に置かれ、天皇の住まいである内裏と、儀式を行う朝堂院、役人が執務を行う官衙から成り、約120haを占めていた。周囲は5m程度の大垣が張り巡らされ、朱雀門はじめ豪族の氏名にちなんだ12の門が設置され 役人らはそれらの門より出入りした。東端には東院庭園がおかれ、宴などが催された。 また、この東院庭園は今日の日本庭園の原型とされている。
794年の平安京遷都後は放棄され、農地となっていた。
1852年(文政8年)、奉行所の役人であった北浦定政が『平城宮大内裏跡坪割之図』を著し、平城京の跡地を推定した。明治時代に建築史家、関野貞が田んぼの中にある小高い芝地が大極殿(第二次)の基壇であることを発見、1907年『平城京及大内裏考』を奈良新聞に発表した。この研究記事がきっかけとなり、棚田嘉十郎・溝辺文四郎らが中心となり平城宮跡の保存の運動が起こった。
1921年には、平城宮跡の中心部分が民間の寄金によって買い取られ、国に寄付された。その後、平城宮址(へいじょうきゅうし)は1922年に国の史跡に指定された(後に特別史跡)。1960年代に私鉄電車の検車庫問題と国道建設問題に対する、二度の国民的保存運動がおこった。現在は、ほぼ本来の平城宮跡地が指定され、保存されている。
のちに址(し・あと)が常用漢字外であるため平城宮跡(へいじょうきゅうせき)と書かれるようになる。
なお、唐招提寺の講堂(国宝)は、平城宮朝堂院にあった建物の一つである東朝集殿を移築したものである。切妻屋根を入母屋にしたり、鎌倉時代の様式で改造されている箇所もあるが、平城宮唯一の建築遺構として貴重である。
整備計画
文化庁による「特別史跡平城宮跡保存整備基本構想」に基づき、遺跡の整備・建造物の復原を進めている。すでに朱雀門(1998年竣工)・宮内省地区・東院庭園地区の復原が完了しており、最も重要な建物である大極殿(第一次)の復原が、2010年の完成を目指して進められている。
また、敷地内を横切る近鉄奈良線と、奈良県道104号谷田奈良線(一条大路)は移設が検討されている。とくに近鉄奈良線については大和西大寺駅、新大宮駅とともに地下化される可能性もある。
なお、整備計画区域内の朱雀門南西側には、積水化学工業奈良工場がある。敷地の一部が朱雀大路跡地にかかっているため、奈良市が約24億円を投じて移転用地を確保したものの、2000年1月に同社から業績の悪化を理由に移転断念の申し入れがあり、翌2月に移転断念が決まった。最近になって再び移転構想が出てきているが、まだ具体化には至っていない。
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