2004/06/02

等持院と双ケ丘(2001GW京都春の特別拝観)part3

等持院は、京都府京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院。山号は万年山。足利尊氏の墓所としても知られる。

足利尊氏は、1341年(暦応4年)に現在の京都市中京区柳馬場御池付近に等持寺を建立し、その2年後の1343年、現在の京都市北区等持院北町に別院北等持寺を建立した。尊氏の死後、別院北等持寺は尊氏の墓所となり、その名前を「等持院」と改称した。その後、応仁の乱で柳馬場の本寺が焼失したため、別院だった現在の等持院が本寺になった。

作家の水上勉は、小坊主としてこの寺に寄宿していた。その当時の住職は栂道節で、京都商業学校(現京都学園高等学校)野球部にいた沢村栄治を東京巨人軍専務取締役市岡忠男に紹介した。

伽藍、庭園
方丈
現方丈は、元和2(1616)に福島正則が妙心寺海福院から移設したもの。襖絵は狩野興以の作。明治維新や映画撮影で一部破損。

庭園
夢窓国師作と伝えられるが、様式的には江戸時代中頃の作と言われている。方丈の北の庭には、池を挟んだ対岸に茶室清漣亭がある。庭の中程には、尊氏の墓と伝えられる宝篋印塔がある。庭園は本来は衣笠山を借景としていたが、立命館大学衣笠キャンパスの拡充により、今では校舎に眺めを遮られている。


霊光殿
方丈の西側に建つ。本尊の地蔵菩薩像の他、足利歴代の将軍、徳川家康の木像がある。

霊光殿に安置されている足利歴代将軍木像は、以下のとおりである。
※歴代数は等持院のもので、一般的な歴代数とは異なる。

向かって左側から

初代将軍:足利尊氏(等持院)
2代将軍:足利義詮(寶篋院)
3代将軍:足利義満(鹿苑院)
4代将軍:足利義持(勝定院)
6代将軍:足利義教(普広院)
7代将軍:足利義勝(慶雲院)
8代将軍:足利義政(慈照院)

向かって右側から

徳川家康(東照大権現)
9代将軍:足利義尚(常徳院)
11代将軍:足利義稙(恵林院)
12代将軍:足利義澄(法住院)
13代将軍:足利義晴(萬松院)
14代将軍:足利義輝(光源院)
15代将軍:足利義昭(霊陽院)

家康像は、家康が42歳の時に厄落としの為にわざわざ作らせ、石清水八幡宮・宝蔵坊から移されたもの。足利歴代将軍ではないが、吉良氏・今川氏を始めとする足利氏一族を高家として江戸幕府に取り立てた他、足利尊氏の三男である室町幕府初代鎌倉公方・足利基氏の子孫に下野国・喜連川藩5000石を与え、1万石に満たない少禄ながら10万石格の大名(喜連川家)に取り立てるなど、足利将軍家縁の者を重んじた。

洛西、右京区御室学区は、北には衣笠山などの美しい山々を望み、西には兼好法師ゆかりの双ケ丘があり、その小高い山に登れば緑の木々の間に間に、北には皇室ゆかりの仁和寺「虎の子渡しの庭」で有名な龍安寺、東には臨済宗妙心寺派の大本山妙心寺、南には待賢門院ゆかりの法金剛院の伽藍を眼下に眺められる。

雙ケ岡(双ケ丘)の謂れと歴史
仁和寺の南に広がる小丘は『雙ケ岡』(現在の『双ケ丘』)と呼ばれ、昭和16年に名勝に指定された。

雙ケ岡は北から南に向かい、次第に低くなる三つの丘から構成され、北
側から順次一の丘、ニの丘、三の丘と呼んでいる。

一の丘の頂上には大規模な古墳があるが、何度も盗掘されているため被葬者はもとより、造成の時期等は一切不明である。

しかしながら、石室を造成する石材の規模は奈良の石舞台にも匹敵するほどのものであり、大きなものは25トンもある。

一の丘にこの石材はなく、三の丘には同じ質の石があることから、石室を構成する時に、この頂上まで運びあげたものと想像されている。よほど有力な者が葬られていたに相違ない。雙ケ岡には、これほどの大きなものは外にはないが、規模の小さい古墳は無数に散在している。

ある時期、この丘はその全山が墳墓の地であったといえよう。

桓武天皇の時代になり、都が京都に移されると、このあたり一帯は天皇が鷹狩を行なうための禁野の地として知られるようになった。さらに、この地の風光が一段と明媚なところから、貴族の別業(別荘)の地としても知られるようになった。

例えば、『日本後記』や養老律令の解説書である『令義解(りょうぎのげ)』を編纂した右大臣清原夏野(782~837)や、嵯峨天皇の皇子である左大臣源常(812~845)などが、この地に山荘をかまえている。

雙ケ岡の北に仁和寺が創建された後では、『徒然草』を書いた兼好法師(1283~1350)、さらに時代が下がると光琳、仁清、乾山がこの地に簡居をかまえている。

雙ケ岡(双ケ丘)古墳群
群集墳
 小規模な古墳が一定の地域の次々と築造されて群をなすもので、5世紀末から6世紀初頭に始まり、6世紀後半の最盛期を経て7世紀前半に衰退していった。被葬者は墳丘規模、内部構造さらにその圧倒的な数から見て一部の支配階級ではなく、より広範な階層の人々と考えられる。

丘内には、ニ群20余の円墳が確認されている。

一号墳
 一の丘山頂に、1号墳がある。昭和55年の発掘調査により、全容が明らかになった。1号墳は円墳で、その規模は直径約44メートル、高さ約8メートルを測る。主体部は横穴式石室で、石室の全長14.6メートル、玄室(死者の棺を安置する所)は幅3.6メートル、高さ5メートルあり、その規模からみて上でも述べたように、首長級の古墳(※)と思われる。6世紀末から7世紀初頭の築造で、調査では金環、須恵器、土師器などが出土している。

※「一号墳」は、廣隆寺の創建者「秦河勝(はたのかわかつ)」の墓といわれている。

昔も今も変わらない『自然豊かな丘内』
双ケ丘(雙ケ岡)は周囲を住宅に囲まれ、南北約700メートル、東西
約170~350メートルの独立丘陵で、北から一の丘(標高116メートル)、ニの丘(102メートル)、三の丘(78メートル)の三つの峰が南に向け、なだらかな傾斜をもって低くなっている。丘内はアカマツを主体にヒノキ、スギ、ソヨゴ、コナラ、アラカシ、エゴノキ、モチツツジ、リョウブなど緑豊かで、野生鹿も生息している。

つれづれみちと道沿いのヤマザクラ
雙ケ岡東麓を北から南へ貫く散策路で、道幅2.5~4.0メートル、全長約600メートルあり、園路沿いに「こもれびのひろば」、「はなみのひろば」を設けている。また、北の仁和寺、南の法金剛院を結ぶ歴史の道でもある。

※「つれづれのみち」は、もちろん「徒然草」からとったものである。

ニの丘頂上から北へ下がったところにベンチ、図板を設置した「とおみのひろば」がある。眼下の妙心寺境内から京都市街、更に、東山が一望におさめられる「絶景の場所」である。

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