2004/06/18

飛鳥京跡(2001大和路part9)


飛鳥京跡(あすかきょうあと)は、奈良県高市郡明日香村岡にある飛鳥時代の遺跡。7世紀の宮殿の遺構だとされ、日本書紀などに記述される飛鳥におかれた天皇(大王)の宮の跡地であると考えられている。

元々、この区域には宮らしき遺跡があることは言われており、伝承により板蓋宮の跡だとされてきた。初期の発掘調査で見つかった遺構についても、国の指定史跡として伝飛鳥板蓋宮跡(でんあすかいたぶきみやあと)として登録されており、この名称で参照されることも多い。


発掘調査
昭和34年から、発掘調査が始まった。発掘調査が進んでいる区域では、時期の異なる遺構が重なって存在することがわかっており、おおまかにはⅠ期、Ⅱ期、Ⅲ期遺構と3つに分類される。各期の時代順序と、日本書紀などの文献史料の記述を照らし合わせて、それぞれ

Ⅰ期が飛鳥岡本宮(630636年)
Ⅱ期が飛鳥板蓋宮(643645年、655年)
Ⅲ期が後飛鳥岡本宮(656660年)、飛鳥浄御原宮(672694年)

の遺構であると考えられており、Ⅲ期の後飛鳥岡本宮・飛鳥浄御原宮については出土した遺物の年代考察から、かなり有力視されている。

最上段の層の遺構は内郭と外郭からなっている。内郭は東西158メートル、南北197メートルで、南北の二区画に分かれており、北区画の方が広く、一辺約151メートルの正方形である。井戸、高床建物、廊状建物の建物が多く、川原石が敷かれている。

南区画の方は20×11.2メートルの大規模な建物跡が確認されている。この建物の中心線と、内郭の中心線とが一致している。周りに小砂利が敷かれている。少し離れた所に南門が建設されている。外郭でも掘立柱建物・塀・石組溝等が検出されている。これらの内郭・外郭ともに太い掘立柱を立てた塀で囲まれている。

この他に、「エビノコ郭」(小字「エビノコ」にあることから、この名にしている)と呼ばれる一画があり、29.2×15.3メートルで四面ひさし付きの大型の掘立建物(エビノコ大殿と名付けられている)が発見されており、その周辺を南北100メートル以上、東西約100メートルの掘立柱の塀で囲まれている。

外郭の外側から「辛巳年」(かのとみ)「大津皇子」「大来」等と書かれた墨書木簡が発見されている。「辛巳年」は天武10(681)、「大来」は大友皇子の姉の大来(伯)皇女の名と推定できること等から、この最上段の層の遺構を宮殿建築と想定すると、天武天皇の飛鳥浄御原宮と見なす説が有力である。

遺構の全体の範囲はまだわかっておらず、範囲特定のための発掘調査も行なわれている。

飛鳥京跡」といえば、上記の宮殿遺構を指すことが一般的ではあるが、宮殿遺構の600メートル北の遺跡についても「飛鳥京跡」と指し示されたり、また宮殿遺構の北西の庭園跡(飛鳥京跡苑池遺構)についても「飛鳥京跡で見つかった苑池遺構」と紹介されることもあり、「飛鳥京跡」が指し示す対象範囲は人と場合により、必ずしも一定ではないようである。

飛鳥浄御原宮
発掘調査で構造がもっともよく判明しているのは、飛鳥浄御原宮である。そこでは天皇の居住空間に相当する区画は、東西152158メートル、南北197メートルであり、その南東の儀礼空間は東西94メートル、南北55メートルである。これらの周囲を役所や庭園などの関連施設が取り囲んでいる。さらに役所の一部は周辺地域へも広がっている。

飛鳥宮
飛鳥板蓋宮は、皇極・斉明天皇の2代の天皇、飛鳥浄御原宮は天武・持統天皇の2代の天皇がそれぞれ使用した。こうした状況は、当時の宮は、天皇一代限りの行宮という考え方ではなく、何代もの天皇の宮として使用されるものとの考え方に変わってきていることが分かる。つまり、飛鳥宮は移りゆく宮から、固定した都へと変化する転換点であった。

猿石
猿石は、梅山古墳(現:欽明天皇陵指定)の西に隣接する吉備姫皇女王墓内にある奇石で、全部で4体ある。ユニークな人面石像であるが、猿ではなく渡来人を象ったものであるといわれている。

1702年(元禄2年)に梅山古墳の付近にあった平田村池田という場所の田んぼから掘り出されて古墳の南側に置かれていたが、明治初年ごろに現在の場所に移されたらしい。4体の像には、その外見から左から順に『女』『山王権現』『僧(法師)』『男』とそれぞれに愛称がつけられている。僧以外は像の背面にも顔が彫られている二面石で、僧の背面には肋骨らしきものが彫られている。

柵で仕切られているため、前からしか見ることはできないが、奈良文化財研究所飛鳥資料館の庭にはレプリカが置かれており、背面の様子なども観察できる。


高取の猿石
高取城への登山道の途中にも、猿石と呼ばれる石像が1体置かれている。元々、上記の4体と同じ場所から掘り出され、その後現在の場所に移されたのではないかといわれているが、確かなことは分かっていない。
出典 Wikipedia

ここ飛鳥は、6世紀の終わりに推古天皇が即位し、平城京に都が移るまでの100年間、政治・文化の中心であった地です。中国、朝鮮からの仏教伝来と共に、古墳時代から移り変る飛鳥は、古墳にある埴輪や仏教に見られる仏像などとは異なる奇妙な形の石造が数多く点在し、不思議な空間が広がっています。そんな飛鳥を訪れ、日本の原点に立ってみましょう。

高松塚古墳
まず、飛鳥駅からすぐの所にある高松塚古墳、昭和47年に発掘された美しい壁画が世間を驚かせたのは有名な話です
 


この壁画は寄付金付きの記念切手にもなり、かなり売れたようです。その寄付金で隣に壁画館なるものができ、レプリカを見ることができます。本物は、この古墳の中にすごい設備が入れられ、人工的に温度と湿度管理され保存されています。また古墳の周りもすっかり整備されて、歴史散策するのにいい場所になっています。

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