飛鳥(あすか)は、現在の奈良県高市郡明日香村辺りを指す地域の名。周囲を山々や丘陵に囲まれた小盆地で、その中央を飛鳥川が流れている。
河内国(大阪府羽曳野市)の飛鳥(「近つ飛鳥」「河内飛鳥」)と区別するため、「遠つ飛鳥」・「大和飛鳥」と呼ばれることもある。遠つ飛鳥は、奈良盆地の東南の飛鳥を指すと考えられている。
古い時代においてのみ公的であった名称ではなく、近年においても1956年の合併によって明日香村が生まれるまでは、この地域に飛鳥村があり地方自治体の名称として飛鳥は存在した。また、現在においても明日香村の字(あざ)として飛鳥という地域名称は存在している。しかし「飛鳥」といった場合には、こちら(大阪府の飛鳥)の意味ではなく、冒頭の意味(奈良県の飛鳥)であることが一般的である。
名称について
「あすか」の語源については外来語由来説、地形名称由来説などがあるが、はっきりとしたことは判っていない。
『万葉集』に「飛ぶ鳥の」歌がいくつか見える。
飛鳥(とぶとり)の 明日香の里を置きて去(い)なば君が辺は見えずかもあらむ(1-78)
飛鳥の 明日香の河の上ッ瀬に生(お)ふる玉藻は下ッ瀬に流れ触らふ玉藻なす(略)(2-194)
飛鳥の 明日香の川の上ッ瀬に石橋渡し下ッ瀬に打橋渡す石橋に生ひ靡(なび)ける(略)(2-194)
「飛鳥」を「飛ぶ鳥」と読ませ、「明日香」の枕詞となっていることがわかる。飛鳥の地に鳥類が多く飛んできたことと名称が関係あると思われる。
飛鳥の区域について
現在では明日香村一帯、あるいは人によってはその近隣までも含んで飛鳥と指し示すこともあるが、飛鳥時代当時はより狭い地域を示すものであったようである。飛鳥盆地を中心として飛鳥川の東側に当たる、あまり広くないところ(平地に限れば南北1.6キロ、東西0.8キロほど)と考えられていた(岸俊男など)。
飛鳥京
この飛鳥には、天皇(ヤマト大王)の宮が置かれたことが多く、推古天皇が崇峻5年(592年)の豊浦宮(とゆらのみや)での即位から、持統天皇8年(694年)の藤原京への移転までの、約100年間を日本の歴史の時代区分として飛鳥時代と称している。
また、長らく日本の政治・文化の中心地であったので、宮殿や豪族の邸宅などが建ち並び、帰化系の人々も段々と付近に居住するようになり、中でも後に有力氏族に成長した東漢氏が、早くから飛鳥に近い檜隈に居を構えていた。
6世紀中葉には、飛鳥周辺に仏教が伝わって来て、文化の高い所となってきた。7世紀には、飛鳥は古代日本の政治と文化の中心地となり、都市機能の整備が行われるなど、宮都の様相を呈していたので、「飛鳥京」とも呼ばれていた(『紀』)。
飛鳥におかれた天皇(大王)の宮一覧
豊浦宮
小墾田宮
岡本宮(飛鳥岡本宮)
板蓋宮
川原宮
岡本宮(後飛鳥岡本宮)
飛鳥浄御原宮
飛鳥時代には、豊浦宮は飛鳥の西方、飛鳥川を挟んだ対岸にあり、小墾田宮は飛鳥の北側の小墾田(小治田)と称される地域にあったとされており、その意味では厳密には飛鳥に置かれた宮ではない。豊浦宮は豪族の邸宅を利用していたと推定されており、隋の使者が往来するようになると小墾田宮を造営して、603年推古天皇が遷宮している。これは、外国の使者の饗応に相応しい宮殿が必要になったのだろうと推測されている。
また、古事記に記される允恭天皇の遠飛鳥宮、日本書紀に記される顕宗天皇の近飛鳥八釣宮も、この地に置かれたものと解されることが多い。
異説
雄略天皇(418年-479年)が初瀬を皇居とした後、用明天皇代(585年-587年)を期に飛鳥へと遷都される。最初の朝廷が開かれたのも、この飛鳥である。
明日香村(あすかむら)は、奈良県の中央部に位置する村。中央集権律令国家の誕生の地である事から、飛鳥時代の宮殿や史跡が多く発掘されている事で知られ、「日本の心の故郷」とも紹介される。日本で唯一、全域が古都保存法対象地域の自治体である。また、村全体の世界遺産登録に向けた計画が具体化している。
甘樫丘(あまかしのおか)は、奈良県高市郡明日香村豊浦にある丘陵のこと。
東西に数百m、南北に1kmほど広がっている。丘全体が国営飛鳥歴史公園甘樫丘地区となっている。丘の北側に展望台があり、大和三山、藤原京などの風景を望むことができる。標高148m。
大化の改新以前に、蘇我蝦夷と蘇我入鹿の親子が権勢を示すために丘の麓に邸宅を構えていたという。2007年2月1日、東麓遺跡において7世紀前半から中頃のものと見られる建物跡や石垣を発見したと発表され、蘇我氏の邸宅跡ではないかと注目されている。
古くから誓盟の神(甘樫坐神社)が鎮座した。允恭天皇の時、盟神探湯(くかたち)が行われた。
山腹には、明日香村の保全に尽力した犬養孝氏揮毫の万葉歌碑(志貴皇子(巻1-51))がある。
出典 Wikipedia
「飛鳥寺跡」から西へ出ると、田圃の中に花崗岩製の五輪塔が、上から4個目の水輪を逆さにして建っています。645年(皇極4年)6月12日に中大兄皇子(後の第38代天智天皇)と中臣鎌足に板蓋宮で殺された蘇我入鹿の「首塚」です。
入鹿は、「石舞台古墳」に埋葬された蘇我馬子の孫で、父が蝦夷(えみし)、父の妹、即ち叔母が聖徳太子の妃です。なお、入鹿と聖徳太子の曾祖父は、共に蘇我稲目ですが、642年(皇極元年)聖徳太子が亡くなって、翌年11月、馬子の娘が生んだ古人大兄皇子を即位させる為、太子の息子・山背大兄王を殺しました。また後ろの丘は、入鹿の館が在った「甘橿丘」です。
ここは大化の改新を起こした中大兄皇子と中臣鎌足が蹴鞠会で最初出会ったと伝えられています。蘇我入鹿を天皇の前で暗殺して、大化の改新となるわけです。蘇我氏のお寺ということもあって、お寺のすぐ横に入鹿の首塚がありました。当時は蘇我氏の立派なお屋敷が多くあったそうですが、現在は田んぼの中にひっそりとしています。
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