酒船石遺跡(さかふねいしいせき)は、奈良県明日香村岡にある、いくつかの石造物からなる遺跡。
以前から知られている酒船石に加えて、平成12年(2000年)の発掘で発見された亀形石造物と小判形石造物、および周辺の遺構を含めて酒船石遺跡と呼ぶようになった。この命名は明日香村教育委員会によるが、研究者の間では酒船石と亀形石造物との関連性を疑う意見も強く、この名称は適当ではないとの意見も存在する。
小高い丘の上にある花崗岩の石造物。長さ約5.5m、幅約2.3m、厚さ約1mであるが北と南の一部が欠けている。上面に皿状のいくつかのくぼみと、それを結ぶ溝が刻まれている。酒を造る道具、あるいは薬などを造るための道具ともいわれ諸説あるが、定かではない。近くに水を引いたと見られる土管や石の樋も見つかっていることから、庭園の施設とも言われている。
欠けている部分は後に何かに流用したらしく、上面の造形を無視した石割の跡が見られる。欠けた部分には、石割用の工具である矢が打ち込まれた跡があり、同じように石を割ろうとした痕跡が鬼の俎にも見ることができる。高取城を築く際に、石垣用の石材として利用しようとしたためとみられる。
平成4年(1992年)に酒船石の北の斜面で石垣が発見され、日本書紀の斉明天皇の時代に記述される工事に該当する遺跡と推測されている。記述中の「宮の東の山に石を累ねて垣とす。」の「宮」が、酒船石の南西にある伝飛鳥板蓋宮跡であり「東の山」が酒船石のある丘ということである。
その後、平成12年(2000年)に大規模な発掘が行われ、砂岩でできた湧水設備と、それに続く形で小判形石造物と亀形石造物が発見された。これら二つは水槽になっており、水を溜めたと推定される。さらに、それに続いて石を並べた溝や石段があり、全体を囲むように石垣や石敷がある。
亀形石造物は花崗岩で作られており全長約2.4m、幅約2mで頭や尻尾、足が造形されている。甲羅部分が直径1.25m、深さ20cmでくりぬかれ鉢状になっている。頭の部分の穴から水が流れ込み、尻尾の穴から流れ出したと見られる。尻尾に栓をすることで、水を溜めることもできる。小判形石造物は長さ1.65m、幅1mで深さ20cmで同じく水が貯められるようになっており、排水口は亀の頭に繋がっている。
斉明期に最初に造られ、その後平安時代まで約250年間使用された形跡があり、なんらかの祭祀が行われた遺構と推定されるが定かではない。斉明天皇の両槻宮(ふたつきのみや)の関連施設では、との説もある。酒船石のほぼ真北に位置するが、両者の関連も明らかではない。
なお、この部分は発掘後、大規模な一般見学会が行われた。現在見学は文化財保存協力金という名目で有料となっている。酒船石は従来通り自由に見ることができる。
出水酒船石酒船石遺跡には含まれないが、約400m離れた飛鳥川畔で2個の石造物が見つかっており、これも水を流したような溝などがあり、同じく酒船石と名付けられている。区別するため、こちらを出水の酒船石、もう一方を岡の酒船石と呼ぶことがある。現物は京都に移動されており見ることはできないが、レプリカが奈良文化財研究所飛鳥資料館にある。
出典 Wikipedia
石舞台から北へ向かうと、小高い丘の上にある竹やぶに突如現れる謎の石があります。石の長さは5m、幅2.3m、厚さ1mの花崗岩のこの石は酒船石と呼ばれています。昔、酒を搾(しぼ)るのに使ったとか、薬を使うのに使ったとか色々な説があるようですが、実際の所は謎です。ただ、この石の近くで水を引く土管や石棺が発掘されていることから、この石に水を引いていたのは確かなようです。側面には石を割った跡があり、近年他にこの石を流用したようです。
2000年に、この酒船石から北西約75メートルのところに発掘されたのが、小判形石造物と右の亀形石造物です。最初に、この2つの石が発見された為、丘の上にある酒船石から水を引いていたのではないかと推測されたのですが、このすぐ横から湧水施設が発見され、酒船石とは別の遺構ということが確認されました。
この辺は水が豊富で地下から水が湧き、その水が小判形、亀形、そして北に伸びる溝に排出されていたようです。しかも小判型から亀形に流れる水の穴は小判形の底下から8cmほど上にあり、不純物が沈殿し綺麗な水だけが流れるように工夫されていたようです。
これほどの設備があることから、天皇クラスの位の高い人が、ここで儀式をやっていたと考えられているようです。
いつ、なんの目的で作られたかは謎で、斉明天皇の時代にグリフィン像を造ろうとしたが加工途中で放棄されたものなど、いくつかの説が出されているが結論は出ていない。
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