2004/06/01

ハイドン 弦楽四重奏曲第77番『皇帝』(第2楽章)



 ハイドン自身、この曲の作曲に大いなる意義と自信を抱いていて、また完成に大いなる満足感と達成感を持っていた。

晩年、体中を病に蝕まれ、体力の衰弱とありあまる創作意欲の狭間で苦悩していたハイドンは、この曲をピアノで奏でることでのみ、苦しみから逃れ安らぐことができたのだという。またナポレオン軍がオーストリアに侵攻し、いよいよウィーンが陥落されるという日にも、ハイドンはこの曲を力強く弾き続け国民に訴えかけていたという。

演奏はオーストリア征服の日、すなわちハイドンが息を引き取る前の日にまで及んだ。なお現在第2楽章の主題は、オーストリアではなくドイツの国歌になっている

オーストリア人ハイドンがハプスブルク皇帝を賛美するために作り、ハプスブルク家統治下のオーストリア国歌でもあった曲がドイツ国歌となっていることに釈然としないオーストリア人は多い。これに対し、ドイツ側の見解は概ねこうである。

1806年以前には、オーストリアという国は存在しなかった。法的には「ドイツ人の神聖ローマ帝国」皇帝でありドイツ王であるハプスブルク家が大公を兼ねるオーストリア大公領でしかなかった。したがって、作曲当時は「オーストリア皇帝」ではなく「ドイツ皇帝(神聖ローマ皇帝)」に捧げられたものである。

1806年以降もオーストリア帝国は1866年までドイツ連邦の議長国として、分裂ドイツ国家のリーダー役と見なされていた(これに対し、オーストリア人は「当時「ドイツ国」という国家もなかった、と反論している)
出典Wikipedia

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