唐招提寺は、奈良市五条町にある鑑真ゆかりの寺院。南都六宗の一つである律宗の総本山である。本尊は廬舎那仏、開基(創立者)は鑑真である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂をはじめ、多くの文化財を有する。
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(にいたべしんのう、天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表わす語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、本寺の寺名の由来としては、「唐僧である鑑真和上のための寺」というような意味合いであるとされている。
鑑真の渡日と戒律の伝来
鑑真(688年 - 763年)の生涯については、日本に同行した弟子の思託が記した『大和上伝』、それを基にした淡海三船(おうみのみふね)の『唐大和上東征伝』、井上靖の『天平の甍』などに詳しい。
鑑真は仏教者に戒律を授ける導師「伝戒の師」として日本に招請された。「戒律」とは「規範」「きまり」といった意味で、仏教者が日常生活上守らなければならない事柄であり、一般の仏教信者に授ける「菩薩戒」と、正式の僧に授ける「具足戒」とがある。出家者が正式の僧となるためには、「戒壇」という施設で、有資格者の僧から「具足戒」を受けねばならないが、当時(8世紀前半)の日本には正式の戒壇はなく、戒律を授ける資格のある僧も不足していた。
天平5年(733年)、遣唐使とともに渡唐した留学僧の普照と栄叡(ようえい)は、日本に正式の戒壇を設立するため、しかるべき導師を招請するよう朝廷からの命を受けていた。彼らが揚州(現・江蘇省)の高僧鑑真に初めて会ったのは西暦742年のことであった。
鑑真は渡日を承諾するが、当時の航海は命がけで、鑑真は足掛け12年の間に5回も渡航に失敗、5回目の航海では中国最南端の海南島まで流され、それまで行動をともにしてきた栄叡を失い、自らは失明するという苦難を味わった。753年、6回目の渡航でようやく来日に成功するが、この時も国禁を犯し日本の遣唐使船に便乗しての渡航であった。鑑真は当時、すでに66歳になっていた。
天平勝宝5年(753年)12月、薩摩(琉球ともいう)に上陸した鑑真は、翌天平勝宝6年(754年)2月、ようやく難波津(大阪)に上陸し、同年、東大寺大仏殿前で、聖武上皇、光明皇太后、孝謙天皇らに菩薩戒を授けた。日本で過ごした晩年の10年間のうち、前半5年間を東大寺で過ごした後、天平宝字3年(759年)、前述のように、今の唐招提寺の地を与えられた。
伽藍の整備
唐招提寺の寺地は、平城京の右京五条二坊に位置した新田部親王邸跡地で広さは4町であった。境内の発掘調査の結果、新田部親王邸と思われる前身建物跡が検出されている。また、境内から出土した古瓦のうち、単純な幾何学文の瓦(重圏文軒丸瓦と重弧文軒平瓦の組み合わせ)は、新田部親王邸のものと推定されている。寺内に現存する2棟の校倉造倉庫のうち、経蔵は新田部親王宅の倉庫を改造したものと思われるが、他に新田部親王時代の建物はない。
『招提寺建立縁起』(『諸寺縁起集』所収)に、寺内の建物の名称と、それらの建物は誰の造営によるものであるかが記されている。それによると、金堂は鑑真の弟子で、ともに来日した如宝(? - 815年)の造営、食堂(じきどう)は藤原仲麻呂家の施入(寄進)、羂索堂(けんさくどう)は藤原清河家の施入であった。また、講堂は、平城宮の東朝集殿を移築改造したものであった。金堂は8世紀後半の宝亀年間(770 - 780年)の建築と推定され、この推定通りとすれば鑑真の没後に建立されたものである。
伽藍の造営は鑑真の弟子の如宝、孫弟子の豊安(ぶあん)の代にまで引き継がれた。平安時代以後、一時衰退したが、鎌倉時代の僧・覚盛(かくじょう、1193年 - 1249年)によって復興された。
伽藍
唐招提寺金堂は現在解体修理中であり、以下の説明は2009年秋に落慶予定の修理前の状況を示す。
金堂(国宝)
奈良時代の金堂建築としては、現存唯一のものである(奈良・新薬師寺の本堂は奈良時代の建築だが、元来本堂として建てられたものではない)。寄棟造、単層で、屋根上左右に鴟尾(しび)が乗る(西側の鴟尾が当初のもので、東側は鎌倉時代のもの)
正面7間、側面4間(「間」は長さの単位ではなく、柱間の数を表わす)で、手前の7間×1間を吹き放ち(壁、建具等を設けず、開放とする)にすることがこの建物の特色である。吹き放しとなった堂正面には8本の巨大な円柱が並び、この建物の見所となっている。建物は文永7年(1270年)と元禄6年 - 7年(1693年 - 1694年)に修理されており、屋根構造は近世風になっている(創建当時の屋根高は、現状より2.8mほど低かった)。
2005年、奈良県教育委員会の発表によれば、金堂の部材には西暦781年に伐採されたヒノキ材が使用されており、建造は同年以降ということになる。堂内には中央に本尊・廬舎那仏坐像、向かって右に薬師如来立像、左に千手観音立像の3体の巨像を安置するほか、本尊の手前左右に梵天・帝釈天立像、須弥壇の四隅に四天王立像を安置する。


講堂(国宝)
平城宮の東朝集殿を移築・改造したもの。東朝集殿は、壁や建具の殆どない開放的な建物で、屋根は切妻造であったが寺院用に改造するにあたって屋根を入母屋造とし、建具を入れている。鎌倉時代の建治元年(1275年)にも改造されているが、天平時代宮廷建築の唯一の遺構として極めて貴重である。堂内には本尊弥勒如来坐像(重文、鎌倉時代)と、持国天、増長天立像(重文、奈良時代)を安置する。1970年に新宝蔵が完成するまでは、堂内に多数の仏像を安置していた。
経蔵、宝蔵(各国宝)
境内東側に並んで建つ。ともに奈良時代の校倉造倉庫。経蔵は唐招提寺創建以前、ここにあった新田部親王邸の倉を改造したものとされ、宝蔵はここが寺になってから建てられたものと推定される。
鼓楼(国宝)
金堂・講堂の東側に建つ、小規模な2階建の建物。鎌倉時代・仁治元年(1240年)の建築。鑑真請来の仏舎利を安置するため、舎利殿ともいう。
礼堂(重文)
鼓楼の東にある南北に細長い建物。元の僧房を弘安6年(1283年)に改築したものである。隣の鼓楼(舎利殿)に安置された仏舎利を礼拝するための堂である。内部に清凉寺式釈迦如来立像(重文・秘仏)を安置する。
戒壇
境内西側にある。戒壇は、出家者が正式の僧となるための受戒の儀式を行う場所。戒壇院の建物は、江戸時代末期の嘉永元4(1851年)に焼失して以来再建されず、3段の石壇のみが残っている。1980年にインド・サンチーの古塔を模した宝塔が壇上に置かれた。唐招提寺の戒壇は創建時からあったものとする説と、鎌倉時代の弘安7年(1284年)に初めて造られたとする説とがある。


御影堂(重文)
鑑真の肖像彫刻(国宝)を安置する(開山忌の6月5日-7日のみ公開)。建物は興福寺の有力な子院であった一乗院(廃絶)の遺構。1962年までは地方裁判所の庁舎として使用され、1964年に唐招提寺に移築された。障壁画「黄山暁雲」は鑑真の御霊を慰める為、日本画家東山魁夷によって新たに描かれたものである。
新宝蔵
1970年に完成した鉄筋コンクリートの収蔵庫。例年春と秋に期日を限って公開される。金堂にあった木造大日如来坐像(重文)のほか、「旧講堂木彫仏群」といわれる、もと講堂に仮安置されていた奈良時代末期~平安時代前期の一木彫仏像群が収蔵され、一部が展示されている。
東塔跡
かつて存在した五重塔の跡。『日本紀略』によれば、弘仁元(810年)の創建。享和2年(1802年)落雷で焼失した(西塔については、あったとする史料もあるが定かではない)
出典 Wikipedia
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