橘寺は、奈良県高市郡明日香村にある天台宗の寺院。正式には「仏頭山上宮皇院菩提寺」と称し、本尊は聖徳太子・如意輪観音。橘寺という名は、垂仁天皇の命により不老不死の果物を採りにいった田道間守(たじまもり)が、持ち帰った橘の実を植えたことに由来する。
聖徳太子誕生の地に建ち、太子建立七大寺の1つとされる橘寺は、太子が父用明天皇の別宮を寺に改めたものとされる。発掘調査の結果、当初の建物は、四天王寺式伽藍配置の壮大なものだったことがわかっている。
皇族・貴族の庇護を受けて栄えたが、鎌倉期以降は徐々に衰えている。
伽藍
本堂(太子堂)
元治元年(1864年)に再建された建物で、本尊として聖徳太子坐像が安置されている。
観音堂
如意輪観音坐像が安置されている。
二面石
境内にある高さ約1mほどの石像で、左右に善相と悪相が彫られており、人の心の二面性を表現しているという。
五重塔跡
橘の花をかたどったとされる塔心礎(心柱の礎石)が、わずかに往時をしのばせる。落雷で焼失
文化財
境内が国の史跡に指定されている。
重要文化財
聖徳太子35歳の像で、太子の彫刻としては最古のものといわれる。
出典 Wikipedia
亀石からさらに東に進むと、彼岸花が咲き誇る田んぼの真中に突如現れるお寺があります。聖徳太子誕生の地に、太子自身が創建とされる橘寺です。
この橘とは、日本書紀によると田道間守(たじまもり)が垂仁天皇の勅命を受けて不老長寿の薬を求め、海を渡り十年後にある種を持ち帰りました。しかし、その時はすでに天皇は亡くなっていたそうです。しかたなく、その種をこの地にまくと芽が出たのが橘(みかんの原種)であったことから、以来この地を橘と呼ぶようになったそうです。そして、ここに橘の宮という欽明天皇の別宮が建てられ、太子はここで生まれ子供頃を過ごしていました。
殆どの建物は火事で消失してしまい。現存するものは、江戸時代に徐々に再建されたようです。太子堂と呼ばれいる本堂は、元々は講堂でした。中に安置されている本尊は聖徳太子35歳の像(重文)で、太子の彫刻としては最も古いものです。収蔵庫には聖徳太子絵伝があり必見です。太子の生涯が屏風に描かれ8幅あるそうなのですが、その内の第3幅、第4幅が展示してあります。太子の11歳から20歳までの様子が、よくわかります。残りの屏風は奈良国立博物館が所蔵し、特別展などで公開しているようです。
ここ橘寺にも、飛鳥時代の不思議な石造仏二面石があります。背中合わせの二つの顔は、それぞれに人の心の善悪を象徴しているそうで、左が善の顔、右が悪の顔です。元々はここにはなく、近年ここに運ばれてきたようです。それにしても、飛鳥は不思議な石が多いです。
創建時期は不明だが、天武天皇の皇子で27歳で早世した草壁皇子の住んだ岡宮の跡に義淵僧正が創建したとされる。寺の西に隣接する治田神社(はるたじんじゃ)、境内からは奈良時代前期に遡る古瓦が発掘されており、創建当時の岡寺は現在の治田神社の位置にあったものと推定されている。2005年に国の史跡に指定された。
現在では真言宗豊山派の寺院だが、義淵僧正は日本の法相宗の祖であり、その門下には東大寺創建に関わった良弁や行基などがいた。義淵僧正が法相宗の祖とされていたため、江戸時代までは興福寺の末寺であった。江戸時代以降は、長谷寺の末寺となった。
寺号について
前述のように、当寺院には「岡寺」「龍蓋寺」の2つの寺号がある。「岡寺」は地名に由来する寺号、「龍蓋寺」は法号である。仁王門前の石柱には「西国七番霊場 岡寺」とあり、通常はもっぱら「岡寺」の呼称が用いられている。宗教法人としての登録名も「岡寺」である(そのため、重要文化財建造物の指定名称は「岡寺仁王門」「岡寺書院」となっている)。
国宝 [編集]
木心乾漆義淵僧正坐像
奈良時代。目尻が垂れ下がり、皺の多い独特の容貌、あばらの浮き出た胸板などを写実的に表現している。奈良国立博物館に寄託。
重要文化財
塑造如意輪観音坐像
奈良時代、像高4.6mの日本最大の塑像である。如意輪観音像は6臂の坐像に表わすものが多いが、本像は石山寺本尊などと同様の2臂像である。頭部は造像当初のものを残すが、体部は補修が多く、脚部は本来、石山寺本尊像と同様の半跏像であったものを、現状のような坐像に改めたものである。
銅造菩薩半跏像
奈良時代。京都国立博物館に寄託。
木造仏涅槃像
鎌倉時代。東京国立博物館に寄託。
天人文甎(てんにんもんせん)
京都国立博物館に寄託
出典 Wikipedia
出典 Wikipedia
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