「職業指揮者」の登場は音楽の歴史上からみれば非常に新しく、19世紀半ばにリスト門下から登場してきたハンス・フォン・ビューローが最初のプロとしての指揮者と言われ、それ以前の作曲家たちは初演では自ら指揮を執っていたのが一般的だった。
音楽には、まず作曲家の作った楽譜がある。そして当然ながら、楽譜には音符が色んな配置で並んでいる。素人目には、たとえそれを何時間眺めていたところで、楽譜に書いてある音符以上のものは見えてこないが、しかるべき教育(指揮法や作曲法)を受けた専門家が見た場合、その楽譜(つまりは、その曲)に対する色々な「解釈」が見えてくるらしい。中でもプロの指揮者ともなれば、言ってみれば「音符解釈の達人」である。
指揮者にも様々なタイプがあり「楽譜に忠実な指揮者」もいれば「独自の解釈」を売り物にする人がいたりと様々で、例えばシベリウスを振るに備え遥々フィンランドまで旅をして来た指揮者もいれば
「そんなことは総て楽譜に書いてある!」
と言ってせせら笑ったトスカニーニのような「楽譜至上の指揮者」までと、音楽に対するアプローチの仕方はまことに千差万別なのである。
勿論、演奏者とて一流オーケストラの楽員レベルともなれば、各人それぞれがその人なりの「解釈」を持っているだろうし、あるいは指揮者以上に的を射た「解釈」を持った演奏家も居るかもしれない。が、チェスに喩えるなら、演奏家はあくまで一つの「駒」に過ぎず、実演において「解釈」が許されるのは指揮者にのみ許された特権と言える。また、実際の演奏の前には繰り返し繰り返し行うリハーサルの段階で、それぞれのパートは身体に染み込んでおり、特に実演に当たって指揮者の方ばかり見ていなくとも演奏には問題がないくらいで、そこに独自の解釈などの入り込む余地はないとも言えるでしょう。
勿論、オーケストラにもそれぞれの特徴があり、逆に指揮者自身がイメージした曲作りを求めて、特定のオーケストラを指名する場合もあったりする。また、同じ指揮者とオーケストラの組み合わせの演奏でも「ありゃりゃ?」と驚くくらいに違った音が出る事もあったりするくらいで、得てしてそういったハプニングから意図せずして思わぬ名演奏が生まれたりもしている。
フルトヴェングラーと並ぶ20世紀最大の巨匠・トスカニーニは「演奏は生き物である・・・」というような事を言っていた。たとえ同じ指揮者とオーケストラの組み合わせで同じ曲を演奏しても、一度として同じ演奏はなく1回1回がオリジナルであると。昨日の演奏と今日の演奏では、同じようにやっているつもりでも必ずどこかが違う。10回演奏すれば10通りの解釈が生まれる、いわば日本人の「一期一会」の感覚に通じるような趣旨であった。
それは同じ指揮者とオーケストラで、同じ曲を録音したCDを聴き比べてみれば一目(一聴?)瞭然で、こうしたところから出て来るいわゆる「当たり」、「外れ」もClassic音楽ならではの楽しみと言える。この場合に「どっちが本モノか?」となればどちらも贋物であるわけはなく、やはりどっちも本物だと言うしかないのである。
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