2004/06/11

新薬師寺(2001大和路part2)

新薬師寺は、奈良市高畑福井町にある華厳宗の寺院である。本尊は薬師如来、開基(創立者)は光明皇后または聖武天皇と伝える。山号は日輪山(ただし、古代の寺院には山号はなく、後世に付したものである)。奈良時代には南都十大寺の1に数えられ、平安時代以降は規模縮小したが、国宝の本堂や奈良時代の十二神将像を始め、多くの文化財を伝えている。

奈良市街地の南東方、春日大社の二の鳥居の南方に位置する。最盛期には4町(約440メートル)四方の寺地を有し、現在の奈良教育大学のキャンパスあたりまでが新薬師寺の境内地であった。なお、寺名の「」は「あたらしい」ではなく「霊験あらたかな」の意味だという。

新薬師寺は、奈良時代から存在する寺院であることは間違いないが、草創については諸説ある。『東大寺要録』によれば、光明皇后が夫聖武天皇の病気平癒を祈願して天平19年(747)に建立し、七仏薬師像を安置したとされる。なお、この時の聖武天皇の病気は大したものではなかったようで、むしろその2年前の天平17年(745年)の天皇の病気(『続日本紀』に記事がある)平癒のために発願されたとする見方もある。また別の伝承では、聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して、天平17年(745)に建立したともいう。

また、新薬師寺の東方、春日山の山中には、やはり光明皇后の発願になる香山堂(こうぜんどう)または香山薬師寺と呼ばれる寺院が存在したことが、記録や発掘調査から知られている。この香山堂が新薬師寺の前身で、後に山麓の新薬師寺と合併したともいう。香山堂については、1966年の発掘で佐保川の水源地付近の尾根上に寺院跡が確認され、東大寺大仏造立に遡る時期の瓦が出土している。天平勝宝8歳(756年)の記がある「東大寺山堺四至図」(とうだいじさんかいしいしず、正倉院宝物)という絵図には「新薬師寺」と「香山堂」の両方が明記されており、この頃には両寺が並存していたことが明らかである。

2008年、奈良教育大学の校舎改築に伴う発掘調査が行われ、同大学構内で新薬師寺金堂跡とみられる大型建物跡が検出された。同年1023日の奈良教育大学の発表によると、検出された建物跡は基壇の規模が正面54メートル、奥行27メートルと推定され、基壇を構成していたと思われる板状の凝灰岩や、柱の礎石を支えていたとみられる、石を敷き詰めた遺構などが出土した。当地は現・新薬師寺の西約150メートルに位置し、上述の「東大寺山堺四至図」にある新薬師寺の七仏薬師堂に相当する建物跡と推定されている。

衰退と復興
創建時の新薬師寺は金堂、東西両塔などの七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院であったが、次第に衰退した。『続日本紀』によれば、宝亀11年(780年)の落雷で西塔が焼失し、いくつかの堂宇が延焼している。また、『日本紀略』『東大寺要録』によれば、応和2年(962年)台風で金堂以下の主要堂宇が倒壊し、以後、復興はしたものの、往時の規模に戻ることはなかった。現在の本堂は奈良時代の建築だが、本来の金堂ではなく、他の堂を転用したものである。本尊の薬師如来像も様式・技法上、創建時までは遡らず8世紀末頃の制作と見られている。

治承4年(1180年)の平重衡の兵火で、東大寺、興福寺は主要伽藍を焼失したが、新薬師寺は焼け残った。鎌倉時代には華厳宗中興の祖である明恵(みょうえ)が一時入寺し、復興に努めた。現存する本堂以外の主要建物は、鎌倉時代のものである。

国宝
本堂(国宝)-入母屋造、本瓦葺きで低平な印象の堂である。正面は柱間7間のうち中央3間を戸口とし、その左右各2間には窓を設けず白壁を大きく見せた意匠とする。側面、背面も戸口のみで窓は設けていない。内部は土間で、天井を張らず、垂木などの構造材をそのまま見せる「化粧屋根裏」となっている。堂内中央には円形漆喰塗りの仏壇を築き、中央に本尊薬師如来像を安置、これを囲んで十二神将像が外向きに立つ。この建物は創建当初の金堂ではなく、他の建物を転用したものではあるが(食堂であったという説がある)、遺構の少ない奈良時代の建造物として貴重である。

その他、鎌倉時代に建てられた南門、東門、地蔵堂、鐘楼(各重文)がある。
萩の寺としても知られている。

木造薬師如来坐像 - 当寺の本尊。様式・技法上、当寺の創建期までは遡らず、8世紀末頃の作と見るのが通説である。坐像で高さ2メートル近い大作だが、基本的構造は一木造である。眉、瞳、髭などに墨、唇に朱を差すほかは彩色や金箔を施さない素木仕上げとする。一般の仏像に比べ眼が大きいのが特徴で、「聖武天皇が光明皇后の眼病平癒を祈願して」云々の伝承も、この像の眼の大きさと関連するかもしれない。



1975年の調査の際、像内から平安時代初期と見られる法華経8巻が発見され、国宝の「附(つけたり)」として指定されている。光背には6体の化仏が配されていて本体と合わせると7体となり、七仏薬師の伝承から由来したという説もある。また、光背の装飾にはシルクロード由来のアカンサスという植物の葉と考えられている装飾がある。

塑造十二神将立像 11 - 十二神将は薬師如来の眷属である。円形の仏壇上、中央の本尊薬師如来像を囲んで立つ。本尊(木彫)とは異なり、奈良時代に盛んに造られた塑像である。造立の事情は必ずしも明らかでないが、作風や、12躯のうち1躯の台座から「天平」の墨書が見出されたことなどから、天平期の作と見なされている。同じ塑造の傑作として知られる東大寺戒壇院の四天王像の造形と比較すると、甲冑など、やや形式を重視した形で造形されており、東大寺像よりも時代が少し下ると見られている。

 

12躯のうち、1躯(寺伝では波夷羅(はいら)大将、国宝指定名称は宮比羅(くびら)大将)のみは江戸時代末期の地震で倒壊し、1931年に細谷而楽が補作したもので、国宝指定外である。本尊に向かってすぐ右に立つ像(寺伝では伐折羅(ばさら)大将、国宝指定名称は迷企羅(めきら)大将)はよく知られ、その忿怒の表情は、奈良観光のポスターなどによく使用されている。500円切手のデザインとしても有名である。

重要文化財
地蔵堂南門 - 鎌倉時代
東門 - 鎌倉時代
鐘楼 - 鎌倉時代
地蔵堂 - 鎌倉時代、おたま地蔵尊安置

銅造薬師如来立像 -通称「香薬師」と呼ばれる奈良時代の金銅仏だが、1943年に盗難に遭って行方不明。写真と模造でしか見ることはできない。

木造不動明王二童子像 - 平安時代。奈良国立博物館に寄託。

木造十一面観音立像 - 平安時代。奈良国立博物館に寄託。かつて本尊薬師如来像の左右に「日光・月光菩薩像」として安置されていた2躯の観音像のうちの1躯。

絹本着色仏涅槃像 - 平安時代末~鎌倉時代。東京国立博物館に寄託。

銅鐘(梵鐘)
銅手錫杖

新薬師寺旧蔵の重要文化財
木造十一面観音立像 - かつて本尊薬師如来像の左右に「日光・月光菩薩像」として安置されていた2躯の観音像のうちの1躯。現在は奈良国立博物館蔵。

木造准胝観音(伝・千手観音)立像 - 第二次世界大戦後、寺を離れ個人蔵(奈良国立博物館寄託)となっている。
出典 Wikipedia

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