キトラ古墳は、奈良県高市郡明日香村にある古墳。近年では壁画が発見されており、高松塚古墳と共に保存事業が進められている。
二段築成作りの円墳である。墳丘は、小高い阿部山の南斜面に位置している。名称の「キトラ」は「北浦」の転訛といわれる。
1983年11月7日、石室内の彩色壁画に玄武が発見され、注目を集めた。
2000年7月31日、国指定史跡に指定され、同年11月24日には特別史跡に指定された。
円墳であり、四神を描いた壁画があるなどの類似点から、高松塚古墳の「兄弟」といわれることがある。
壁画などにみられる唐の文化的影響が高松塚古墳ほどには色濃くないことから、遣唐使が日本に帰国(704年)する以前の7世紀末から8世紀初め頃に作られた古墳であると見られている。
被葬者
誰が埋葬されているかは、未だ判然としていない。
年代などから天武天皇の皇子、もしくは側近の高官の可能性が高いと見られている。また、金象眼が出土したことから、銀装の金具が出土した高松塚古墳の埋葬者よりも身分や地位の低い人物が埋葬されていると推測される。
白石太一郎や直木孝次郎は、被葬者は右大臣の阿倍御主人(あべのみうし)であったと主張している。その根拠として、古墳周辺の一帯が「阿部山」という名前の地名であることを挙げている。岸俊男なども、その蓋然性が極めて高いと考え支持している。阿倍御主人は、大宝3(703)年4月右大臣従二位、69歳で没する(『続日本紀』『公卿補任』)。
また猪熊兼勝は、天武天皇の皇子の高市皇子という説を主張。
千田稔は、百済から渡来した百済王昌成(しょうじょう)を被葬者に挙げる。
構造
二段築成作りの円墳である。上段が直径9.4m、高さ2.4m、テラス状の下段が直径13.8m、高さ90cm。
石槨は凝灰岩の切石を組み合わせて作られており、内部は幅約1m、長約2.6m、高さ約1.3m。内壁・天井には漆が塗られ、壁画が施されている。
壁画
東西南北の四壁の中央に四神の青龍、白虎、朱雀、玄武が描かれている。
四神の下に、それぞれ3体ずつ十二支の獣面(獣頭)人身像が描かれていると想定されているが、北壁・玄武の「子(ね)」、東壁・青龍の「寅(とら)」、西壁・白虎の「戌(いぬ)」、南壁・朱雀の「午(うま)」など、6体の発見に留まっている。
同時代の中国や朝鮮半島では、獣頭人身を象った浮き彫りや土人形が埋葬された墓が発見されているため、キトラ古墳は中国や朝鮮半島などの文化的影響を受けていたと考えられている。しかし、2005年になって発見された「午」の衣装は、同じ南壁に描かれている朱雀と同じ朱色であった。このことは、十二支像がそれぞれの属する方角によって、四神と同様に塗り分けられていることを推測させる。これは中国・朝鮮の例には見られない特色である。
天井には本格的な天文図があり、太陽、月、星座、赤道などが描かれていた。中国や朝鮮などに残っている最古の天文図は11世紀や12世紀のものであるから、現存する天文図の中では世界最古ではないかと注目されている。
保存事業
現在、古墳一帯は国営飛鳥歴史公園の一部として、整備が進められている。
発掘後、湿気のため石室内にカビが発生し、壁画の変質が進行していることが判明した。このため壁画をはぎ取り、保存する作業が行われている。文化庁は2004年8月より、損傷の激しいものから順次はぎ取り作業を開始。同庁によれば、2007年2月15日までに南壁の朱雀がはぎ取られ、確認されている壁画のはぎ取り作業は(天井の天文図を除き)完了した。一部が2009年5月8日から同24日まで、奈良文化財研究所飛鳥資料館にて一般公開される。
研究・保存・公開などは、奈良市にある奈良文化財研究所が主となっている。
石舞台古墳は、奈良県明日香村にある古墳時代後期の古墳。昭和27年(1952年)3月27日、国特別史跡に指定される。
古くから、巨石(花崗岩)で作られた玄室が露出しており、その形状から石舞台と呼ばれていた。玄室は、長さ約7.7m、幅約3.5m、高さ約4.7m、羨道は長さ約11m、幅2.5m。石室内部に排水施設がある。約30の石が積まれ、その総重量は2,300tに達すると推定されている。石は古墳の傍らを流れる冬野川の上流約3キロ、多武峰の麓から運ばれた。
封土(盛り土)の上部が剥がされているため、その形状は、2段積の方墳とも上円下方墳とも下方八角墳とも推測されている。また、一辺51mの方形基壇の周囲に貼石された空濠をめぐらし、さらに外提(南北約83m、東西81m)をめぐらした壮大な方形墳であるという。
外提の北西隅の外には、刳坂(くりぬき)石棺を納めた横穴式石室があり、発見当初は陪塚(ばいちょう)であろうと推測されていた。しかし、その後の調査で西側にも7基の横穴式石室が見つかり、いずれも石室内が整地されていたことなどから、石舞台古墳の築造にあたっては、その周辺にあった古墳を削平し移行したと考えられている。
1933年(昭和8)と1935年(昭和10)に、京都帝国大学(当時)の浜田耕作らが中心となり、発掘調査が行われた。しかし、すでに殆どの埋葬品が盗掘にあった後であり、石棺の欠片等が発見されるに留まった。1954年(昭和29)から1959年(昭和33)にかけて古墳の復元整備事業が行われ、この時には外側の堀を掘るために上を通っていた県道が曲げられたという逸話がある。
『日本書紀』の推古天皇三十四年(626年)五月の条に「大臣薨せぬ。仍りて桃原墓に葬る。」とある。大臣は、馬子のこと。 石舞台古墳は、蘇我馬子の墓であったとする説が有力である。封土が剥がされ、墓が暴かれたのは、蘇我氏に対する懲罰とする説もある。水野正好奈良大学名誉教授は、石の種類、築造年代などから蘇我稲目説を唱える。
なお、昼間は公開されており、石の下に入ることが出来る。
名称
石舞台という以外に地元では「石太屋」(いしふとや)、「石蓋」(いしぶた)などの名前で呼ばれていた。
「狐が女の姿に化けて古墳の上で踊ったことから、石舞台と名付けられた」という伝説については、古墳のすぐそばで生まれ育った網干善教は、そのような話を自分は聞いたことがなく、近年に創作された話であろうとしている。
出典 Wikipedia
出典 Wikipedia
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