形状
東側(向かって右)の下にある石矢の跡が亀石と呼ばれているが、顔が三角形であることや目が上に飛び出しているなど、亀というよりはカエルの特徴をとらえていると見る人もいる。上部が自然石のままで下部のみが加工されていることから、現在の下面が本来の上面で実は上下逆であったという説も奈良国立文化財研究所の報告書で出されてはいるが、有力視はされていない。
下部には石矢の跡が見られるが、建造当初からあったものなのか、酒船石のように後世になって石を割ろうとした跡なのかも分かっていない。もし当初から残された跡だとすれば、亀石は未完成品であるとの証拠にもなり、後世に割られたとしたら本来は現在よりもかなり高さのある石だった可能性がある。
伝説
言い伝えによれば、奈良盆地一帯が湖であった頃、対岸の当麻(たいま)のヘビと川原のナマズの争いの結果、当麻に水を吸い取られ、川原あたりは干上がってしまい、湖の亀はみんな死んでしまった。亀を哀れに思った村人たちは、「亀石」を造って亀の供養をしたという。
亀石は以前は北を向き、次に東を向いたと言う。そして、今は南西を向いているが、西に向き、当麻の方を睨みつけると奈良盆地は一円泥の海と化す、と伝えられている。
出典 Wikipedia
猿石から田んぼのあぜ道を行くと、すぐに鬼の雪隠(せっちん)呼ばれる石に到着します。元々は古墳の石室の蓋の部分で、封土がなくなり石がむき出しの状態との事、下の写真が鬼のまな板と呼ばれ石室の底板にあたり、ちょうど鬼の雪隠をひっくり返して蓋をするように石室があったようです。
小高い丘の下と上にあります。この雪隠とはトイレのことで、昔この近くに住む鬼が、霧を降らせて旅人を迷わせ迷った所を捕らえこのまな板の上で料理し、お腹がいっぱいになった所で、
雪隠で用を足したという伝説があるようです。この辺りは霧ヶ峯と呼ばれ霧がよく発生したころから、こういう風説が人々の間で語られたのでしょう。
2つの石は、大化の改新の翌年にあたる646年に作られているようです。残念ながら誰のお墓であったかはわかっていませんが、近年天智天皇の第一皇子で持統天皇の実弟・建王(たけるのみこ)と、建王の祖母・斉明天皇が合葬された可能性が高いと報告されています。
さらに進むと、有名な亀石があります。田んぼの真ん中にあるので、そのまま通りすぎてしまいそうになりました。
鬼の俎(おにのまないた)と鬼の雪隠(おにのせっちん)は、奈良県高市郡明日香村野口(鬼の俎)、明日香村平田(鬼の雪隠)にある花崗岩で作られた遺構。
畑の中を通る遊歩道の脇の高台には「鬼の俎」が、遊歩道を挟んだ高台の麓に「鬼の雪隠」がある。両者は直線距離にして数十メートル離れているが、元は1つの古墳の石室だったものが、盛土が無くなったうえ、二つに分かれてしまったものである。元々は繰り抜かれた横口式石槨の石室(鬼の雪隠)と、その底石(鬼の俎)であった。
大きさ
底石(俎)は、長さ約4.5m、幅約2.7m、厚さ約1m。石室(雪隠)の内幅は約1.5m、高さ約1.3m。
言い伝えによると、風の森と呼ばれるこの地方に鬼が棲んでおり、通行人を騙してとらえ食べたと云われている。「俎」で調理し、「雪隠」で用を足したという。
底石(俎)には多数の穴が開けられており、割り取ろうとした形跡がみられる。これは高取城建設の際に、石垣の石材として利用しようとしたためとみられる。
双墓説
俎の位置は、雪隠から見てやや東側にずれている。実は現在の俎の西にもう一つ別の俎があり、明治の頃に小さく割られ庭石に転用されたという。すなわち鬼の俎・雪隠古墳は双墓であり、現在の雪隠は西側にあったもう一つの俎と組み合わされた石槨だというのである。割られた石は、橿原考古学研究所付属博物館の屋外に展示されている。
出典 Wikipedia
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