2004/02/07

ブラームス 交響曲第1番(第4楽章)




 最終楽章は第1楽章同様に序奏が長く、5分以上過ぎてからようやく第一主題が登場する。この交響曲は、初演の時から第4楽章のテーマがベートーヴェンの『第9』と似通っていることが指摘されていた。それに対し、ブラームスは「そんなことは、聴けば豚でも分かる!」と言って、きわめて不機嫌だったらしい。

確かにこの作品には、色濃くベートーヴェンの姿が影を落としている。特に、第1主題が有名な「歓喜のテーマ」と非常によく似ているため「剽窃論争」があった。考えてみれば、あれだけ若かりし頃からベートーヴェンを意識していたブラームスだから、本人に恣意的な剽窃のつもりはなくとも、知らぬ間に似てしまうのも無理からぬ事であったろう。姿・形も古典派の交響曲によく似ており、最終楽章の音楽の流れなども『第9』とそっくりだ。

しかし、ここに聴こえる音楽は疑いもなく「ロマン派の音楽」そのものだとも言える。ブラームスがテーマとしているのは、人類や神のような大きな問題ではなく、個人に属するレベルでの人間の問題だ。音楽はもはや神を称えるものでなく、人類の偉大さを称えるものでもなく、一人の人間を見つめるものへと変化していった時代の交響曲なのである。

慎重居士のブラームスは、この作品の出来栄えには相当な自信を持ってはいたが、まずは田舎の小さなホールで初演を行い、好評で迎えられたのを確認した後に、満を持して大々的に「初演」を打つことになる。初演後も改訂が続けられ、決定稿が出版されたのは翌1877年。初演稿と決定稿では第2楽章の構成がかなり違うが、近年は初演稿が演奏されることもある。ピッコロを欠きホルンが増強された点を除けば、ベートーヴェンの交響曲第5番と編成が殆ど一致する。また、第4楽章でのみトロンボーンが使用される点でも、類似している。

楽器の扱い方の点でも、たとえばベルリオーズの幻想交響曲で見られるような、あからさまな特殊奏法は要求されていない。一方、ホルンとトランペットについては、当時すでにヴァルヴ式楽器のものが普及した中で、ナチュラル管時代、あるいはヴァルヴ管への過渡期を想起させるような楽譜の書き方になっている。
Wikipedia引用

 ベートーヴェンの『第5』と同様に、よくもまあこれだけ緊密(というか無愛想?)に目の詰まった曲を書いたものだ。なにしろ20年以上もの歳月をかけて、じっくり熟成させ吟味を重ねてきたのだし、確かにそれだけの価値は充分にある。あたかも一流の建築家が、一本一本柱を打ち立てていくように構築された、壮大な建築の風格がある音楽なのだ。

しかし、この作品は好き嫌いが多いようですね。嫌いだと言う人は、この異常に気合の入った力みかえったような音楽が、鬱陶しく感じるようです。逆に好きだと言う人は、この同じ音楽に青春と言うものが持つある種思いつめたような緊張感に、魅力を感じるようです。

かつて誰かが「力みかえった青春の澱のようなものを感じる」と書いていて、大変な反発を感じたものですが、最近はこの言葉に幾ばくかの共感を感じます。それだけ、年をとったということでしょうか。

 「精神が私に語りかける」と言ったミューズ(ベートーヴェン)に対し「一番難しいのは、余計な音符を払い落としていくことだ」と言うブラームスは、やはり職人気質の人といえるだろう。この『第1』こそは、良くも悪くもブラームスらしい音楽」という気がする。「ブラームスらしい音楽」という事は、聴き終った後はドッとくたびれるということだ。楽しめる要素は殆どないのに、不思議と心地よい疲れなのである。

ブラームスの音楽といえば、どの曲も大建築を思わせるに充分な恐ろしくガチガチに目の詰まったあの分厚い構成から、楽しめる要素にはまったく欠けている。それだけに専門家の評価が高い反面、素人的には「暗い、重い、難しい」などと敬遠されがちでもある。が、あのブラームスのクソ真面目すぎるようなごつごつとした武骨さこそに、ワタクシ的にはなんともいえない魅力を感じるのである。

0 件のコメント:

コメントを投稿