弥勒菩薩半跏像(宝冠弥勒)
広隆寺に2体ある弥勒菩薩半跏像のうち「宝冠弥勒」と通称される像で、霊宝殿の中央に安置されている。日本に所在する仏教彫刻のうち、もっとも著名なものの1つと思われる。ドイツの哲学者カール・ヤスパースが、この像を激賞したことはよく知られている。
様式と制作地
像高は約123センチ、アカマツ材の一木造で、右手を頬に軽く当て、思索のポーズを示す弥勒像である。制作時期は7世紀とされる。広隆寺像は、元来は金箔で覆われていたことが、下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかである。
制作地については、作風等から朝鮮半島からの渡来像であるとする説と、日本で制作されたとする説があり、今なお決着を見ていない。
第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は本像内部の内刳り部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻は殆ど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。
ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影の際、内刳り(軽量化と干割れ防止のため、木彫像の内部を空洞にすること)の背板にクスノキ材が使用され、さらに背部の衣文もこれに彫刻されていることが判明した。(明治時代に、この像は破損した状態で発見され、このとき楠材を用いて欠損部分が補われている。)また、アカマツが日本でも自生することから、日本で制作されたとする説がある。
朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは、『日本書紀』に記される、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)、新羅から将来された仏像のどちらかが、この像に当たるのではないかと言われている。
エピソード
1960年8月18日、京都大学の20歳の学生が弥勒菩薩像に触れ、像の右手薬指が折れるという事件が起こった。この事件の動機について、よく言われるのが「弥勒菩薩像が余りに美しかったので、つい触ってしまった」というものだが、当の学生は直後の取材に対し
「実物を見た時"これが本物なのか"と感じた。期待外れだった。金箔が貼ってあると聞いていたが、貼ってなく、木目が出ており埃も溜まっていた。監視人がいなかったので、いたずら心で触れてしまったが、あの時の心理は今でも説明できない」旨述べている。
なお京都地方検察庁は、この学生を文化財保護法違反の容疑で取り調べたが、起訴猶予処分としている。また、折れた指は拾い集めた断片を繋いで復元されており、肉眼では折損箇所を判別することは不可能である。
本像について、しばしば「国宝第1号」ということが喧伝されるが、それは文部大臣から交付された国宝指定書の番号が「彫刻第1号」になっているに過ぎず、本像と同じく1951年6月9日付けで国宝に指定された物件は、他にも多数ある。>
<微笑を湛えた宝冠弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)の美しさと気品は、息を呑むほどだ。赤松の一本造で、朝鮮半島からの将来仏という説が有力。宝髻[ほうけい]弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)は、泣いたような表情から泣き弥勒と呼ばれる。
他にも、国宝・重要文化財の仏像を多数所蔵する。赤堂と愛称される講堂(重要文化財)は、藤原末期の建築>
京都に1200ある寺院の中でも最古といわれる「広隆寺」(全身は峰岡寺という名前)の創建に関わる逸話は「日本書紀」にも記されているほどで《聖徳太子のスポンサーだった、秦河勝(はたのかわかつ)が建立した寺》と言われるほどに、太子に縁の深い寺院でもある。
見どころは、何といっても「霊宝館」だ。国宝が17体、重要文化財が31体もある仏像群が、今では一見地味にさえ見える「広隆寺」の、かつての栄華が存分に偲ばれるところだろう。
これら50体を超える仏像の中で、主役は言うまでもなく国宝第一号に指定された「弥勒菩薩半跏思惟像」である。
弥勒菩薩とは
『現在は兜率天(とそつてん)で説法しているが、釈迦入滅後五六億七千万年に至ると、仏となってこの世に出現する菩薩。慈尊。弥勒仏』(「YAHOO! 大辞林」)だが、ここでは聖徳太子自身を指している。この仏像は、太子が17歳の時の肖像だったと記憶している。
「日本書紀」には
《603年(推古11)、聖徳太子は群臣を前にして
「私は尊い仏像を持っている。誰かこの仏を祀るものはいないか」
と尋ねられた。
その時、秦河勝(はたのかわかつ)が
「私が祀りましょう」
と名乗り出て、仏像を拝領した。
そしてその仏像を祀るために建てた寺が、今の広隆寺の前身である蜂岡寺である》
と記述してある。
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