東京都の新宿区に「千駄ヶ谷」(せんだがや)、文京区には「千駄木」(せんだぎ)の地名があります。区は違うものの、由来は恐らくは同じところから来ているのではないかとは容易に想像が付きますが、興味を引く地名なので念のため少し調べてみる事にしました。
千駄木
1.寛永寺への護摩の木や入用の薪を、一日千駄運び出した。
2.太田道灌が、ここに栴檀の木を植えた。
3.「千駄木」や「千駄ヶ谷」は、雨乞いのための「千駄炊き」から来ているのではないか(柳田国男説)
などの説がある。延享三年(1746)開拓して畑とし、その内に宅地もできて御林跡と呼び下駒込村に属した。そして明治以降、ここは東京帝国大学の後背住宅地として学者、文化人が多く住む町となってゆく。
《古くは駒込村に属しており、ここは雑木林で薪などを伐採していた。その数が千駄にも及ぶ、という事で付いたらしい。駒込千駄木町、駒込坂下町、駒込動坂町、駒込林町などを合併した》
千駄ヶ谷
1.元々この地を渋谷川が流れ、一面の萱野で一日に千駄の萓が取れるようなところだったから、という説。
2.千駄木を焚いて雨乞いした谷であったから、とも言われています。千駄木を焚いて雨乞いをする神事は、全国の到るところで行われているようで、天に近い場所で木を焚くことによって神が雨を降らせる、というものです。「駄」は「馬1頭が背負う荷物の重さ」の事です》
《昔、この辺りは見渡す限りの茅野原だったそうです。『新編武蔵風土記稿』には、寛永年間(1624〜)の頃、日々千駄の茅を刈り取ったことからこの名が起こり、正保年間(1644)に「千駄萱村」と書きました。現在の「千駄ヶ谷」と書くようになったのは、元禄年間(1688~)と伝えられています。また昔、太田道灌がこの辺りを巡見した時に、谷間に栽培されている稲が千駄もあったので千駄ヶ谷と名づけた、とも言われます。「駄」とは、馬1頭が背にする荷物を数える単位です。千駄とは「それほど沢山」という意味です》
ポリネシア語による解釈
千駄木は元駒込村に属し千駄木山ともいい、汐見坂の別名がある団子坂には、森鴎外の旧居にちなむ鴎外記念本郷図書館があります。その南には、根津神社がある根津があり、向(むこう)ケ岡(本郷台を指す)の根にあって、舟の泊まる所の意とする説があります。さらにその南、本郷台の先端近くに湯島天神、湯島聖堂がある湯島の地があります。
この「せんだぎ」は、マオリ語の
「テナ・タキ」、TENA-TAKI(tena=encourage,urge
forward;taki=track,challenge)、「勇気を出して路を辿る(急崖のある場所)」》 の転訛と解します。
JR新宿駅の甲州街道から南はもと千駄ヶ谷町で、渋谷川に沿ってさらに現在は神宮前と名を変えていますが、もと原宿村、穏田(おんでん)村、上渋谷村へと続いていました。葛飾北斎『富岳三十六景』には、穏田の水車が描かれています。
この「せんだがや」は、マオリ語の「テネ・タ・(ン)ガ・イア」、TENE-TA-NGA-IA(tene=be
importunate;ta=dash,beat,lay;nga=breathe;ia=current,indeed)、「しつこく痛めつけられた(ために複雑な地形になっている)潮の干満によって水が逆流する(場所)」》の転訛と解します。
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/ 引用
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