2004/02/02

広隆寺へ(夏の京part14)


 退蔵院ですっかり満足した後は、太秦へ廻る。
 
 太秦といえば「東映映画村」が有名だが、その方面にはまったく関心のないワタクシのお目当ては「広隆寺」である。

 「太秦」という地は、京都でも非常に由緒ある土地である。

先にも触れたように、このきぬかけの路を通って花園から太秦に至る北山地区には「金閣寺」を始め「龍安寺」、「御室仁和寺」、「妙心寺」といった、どれもが京都を代表する錚々たる有名寺院がズラズラと並んでいる立地だが、この「広隆寺」も、その中の一つに数え上げられる事は言うまでもない。

 「金閣寺」は言うに及ばずだが「龍安寺」の石庭、「御室仁和寺」の日本庭園と御室桜、「妙心寺」は(退蔵院)庭園や大伽藍というように、それぞれが派手な売り物を持つ中にあって、京都らしい華やかな日本庭園のない「広隆寺」は、その中にあっては地味な扱いになりがちではある。が、国宝第一号に指定された「弥勒菩薩半跏思惟像」を始め、仏像は国宝・重文クラスが目白押しで寺格はかなり高い

 かく言うワタクシも、これまでは日本庭園のある寺院を最優先して観光スケジュールを立ててきていたため、この「広隆寺」にはこれまで足が向かなかったが、ちょうど近くのコースを通るついでという形で

 (有名な国宝第一号を拝ませていただこうか・・・)

 という程度の気持ちであった。

 <秦氏の氏寺で、秦河勝[はたのかわかつ]が聖徳太子から賜った仏像を奉じて、一宇を創建したのが起こりと伝わる・・・>

 阿吽の像が両側から睨みを利かせている古びた南大門(仁王門)を潜ると、ガランとした境内には風船を飛ばして子供を遊ばせている何人かの主婦の姿が目に入るなど、観光コースから少し外れた寺院らしい長閑な光景に出会った。
 かつては有数の大寺院だったといわれるが、度重なる戦災などで消失した今では太子殿、講堂、霊宝殿の三つが残るのみである。

 <広隆寺は、京都市右京区太秦(うずまさ)にある真言宗御室派の寺院。山号を蜂岡山と称する。蜂岡寺(はちおかでら、ほうこうじ)、秦公寺(はたのきみでら)、太秦寺などの別称がある。帰化人系の氏族である秦(はた)氏の氏寺であり、平安京遷都以前から存在した京都最古の寺院である。国宝の弥勒菩薩半跏像を蔵することで知られ、聖徳太子建立七大寺(法隆寺(斑鳩寺)、広隆寺(蜂丘寺)、法起寺(池後寺、尼寺)、四天王寺、中宮寺(尼寺)、橘寺(聖徳太子生誕地)、葛木寺(尼寺))の一つ

毎年1012日に行われる牛祭は、京都三大奇祭として知られる。

広隆寺は、東映太秦映画村で有名な太秦に所在するが、創建当初からこの地にあったものかどうかは未詳で、7世紀前半に別の場所に創建され、平安遷都前後に現在地に移転したという説が有力である。創建当初は弥勒菩薩を本尊としていたが、平安遷都前後からは薬師如来を本尊とする寺院となり、薬師信仰とともに聖徳太子信仰の聖地となった。現在の広隆寺の本堂に当たる上宮王院の本尊は聖徳太子像。

『日本書紀』等に広隆寺草創に関わる記述があり、発掘調査の結果等からも草創が7世紀にさかのぼる古寺であることは確かだが、弘仁9年(818年)の火災で古記録を失ったこともあり、初期の歴史は必ずしも明確ではない。

『書紀』によれば、推古天皇11年(603年)聖徳太子が

「私のところに尊い仏像があるが、誰かこれを拝みたてまつる者はいるか」

と諸臣に問うたところ、帰化人系の豪族秦河勝(はたのかわかつ)が、この仏像を譲り受け、「蜂岡寺」を建てたという。一方、承和5年(838年)成立の『広隆寺縁起』や9世紀後半成立の『広隆寺資材交替実録帳』には、広隆寺は推古天皇30年(622年)、同年に死去した聖徳太子の供養のために建立されたとある。

『書紀』と『広隆寺縁起』とでは、創建年に関して20年近い開きがある。これについては、寺は603年に草創され、622年に至って完成したとする解釈と、603年に建てられた「蜂岡寺」と622年に建てられた「広隆寺」という別々の寺院が後に合併したとする解釈とがある。

蜂岡寺の創建当初の所在地については、確証はないものの、7世紀前半の遺物を出土する京都市北区北野の北野廃寺跡がそれであり、平安京遷都と同時期に現在地の太秦へ移転(ないし2寺が合併)したとする説が有力である。

秦氏は新羅系の帰化人の家系であり、葛野郡(かどのごおり、現・京都市右京区南部・西京区あたり)を本拠とし、養蚕、機織、酒造、治水などの技術をもった一族であった。広隆寺の近くにある木嶋坐天照御魂神社(蚕の社)や、右京区梅津の梅宮大社、西京区嵐山の松尾大社(ともに酒造の神)も秦氏関係の神社といわれている。

『日本書紀』には、推古天皇31年(623年、伝本によっては推古天皇30年とも)、新羅と任那の使いが来日し、将来した仏像を葛野秦寺(かどのはたでら)に安置したという記事があり、この仏像が今も広隆寺に残る2体の木造弥勒菩薩半跏像のいずれかに該当するとする説がある。なお、広隆寺の本尊は平安遷都直後の延暦16年(797年)以来、薬師如来となっている。

弘仁9年(818年)の火災を始め度々災害に見まわれており、創建当時の建物は残っていない。承和3年(836年)に広隆寺別当(住職)に就任した道昌(空海の弟子)は焼失した堂塔や仏像の復興に努め、中興の祖とされている。

その後、久安6年(1150年)にも火災で全焼したが、比較的短期間で復興し、永万元年(1165年)に諸堂の落慶供養が行われている。現存する講堂(重要文化財)は中世以降の改造が甚だしいとはいえ、永万元年に完成した建物の後身と考えられている。

楼門
寺の正門である。元禄15年(1702年)の建立と伝える。

講堂(重要文化財)
永万元年(1165年)の再建で、永禄年間(15581570)に改造を受け、近世にも修理を受けていて、建物の外回りには古い部分は殆ど残っていないとされているが、内部の天井や架構には平安時代の名残がみられる。内部には本尊阿弥陀如来坐像(国宝)を中心に、向かって右に地蔵菩薩坐像(重要文化財)、左に虚空蔵菩薩坐像を安置する。
上宮王院
広隆寺の本堂に当たる堂。入母屋造、檜皮葺きの宮殿風建築で、堂内奥の厨子内には本尊として聖徳太子立像を安置する。この像には元永3年(1120年)の造立銘があり、聖徳太子が秦河勝に仏像を賜った時の年齢である33歳時の像で、下着姿の像の上に実物の着物を着せて安置されている。

桂宮院本堂(国宝)
境内の西側、塀で囲まれた一画にある。聖徳太子像を祀る堂で、法隆寺夢殿と同じ八角円堂であるが、建築様式的には純和様で檜皮葺きの軽快な堂である。通常非公開で、451011月の日曜、祝日のみ外観が公開される。鎌倉時代の建物であるが、正確な建造年は不明である。
出典 Wikipedia

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