この弥勒菩薩の美しさについては、こんなエピソードがある。
<この二体の菩薩像を見比べると、広隆寺のそれはどこか庶民的で人なつっこく人を引き寄せてしまう魅力があるのに対して、中宮寺のそれは凛として気高く、ちょっと近寄りがたい雰囲気がある。確かに、中宮寺の菩薩像には「遠くで見ているだけで幸せ」という気持ちを抱いたのは事実であった(「二人の菩薩」より)>
「弥勒菩薩」とは、聖徳太子の事であり「半跏」というのは右手の指を頬に近づけ、まっすぐに下ろした左足に右足首を乗せた姿勢である。さらに「思惟」とは、衆生の救済方法を思案している姿であるといわれる。これが聖徳太子の17歳の頃の肖像で、朝鮮半島からの渡来仏である事は赤松の一本木で造られている事から有力視された。
この「弥勒菩薩半跏思惟像」こそは、かの松本清張を始め世の仏像マニアの感激の涙を涸らせ、また心臓を鷲掴みにして揺さぶるような感銘を与えたのだ、といった数々の証言を見るにつけ、それまで仏像にはさして興味のなかったワタクシをして
(これは何としてでも、この目で見なくては!)
という、妙な意欲を掻き立てられる事になったのである。
「弥勒菩薩半跏思惟像」の美しさに関しては、またこんなエピソードもある。
ひと昔前、まだ世の中全体がおっとりとしていた時代の話で、一人の京大生(早大生という説もある)が、このありがたい仏様を拝観したそうな。今とは違い万事につけて大らかな時代の事だから、その頃はこの国宝第一号の貴重な仏像をも、一般の拝観者が自由に触れる事が出来たらしい。そこで、この京大生だか早大生(仮にA君としておきましょうか)だかは
「あまりの美しさに、ついつい抱きしめたくなった」
とウットリと見惚れているだけでは飽き足らず、このありがたい国宝様にやおら頬擦りを始めてしまったらしい。
そこで、とんでもない事が起こった!
なんとも罰当たりな事に、このありがたい国宝第一号様の小指がポキリと折れてしまったのである。
さあ、事の重大さを知って大慌てに慌てたこのA君は、折れた小指を上着のポケットに入れて一目散に広隆寺を飛び出しトンズラを決め込んだのだったが、途中で恐ろしくなってどこかの川に、折れた小指を投げ捨ててしまった!
結局この大学生A君は御用となり、警察の取調べを受けたがどこに棄てたかわからずじまいのまま裁判となった。その判決結果は?
「本件は、弥勒菩薩半跏思惟像の美しさ故に起こった事故であり、よって本件は被告を無罪とする・・・」
1960年8月18日、京都大学の20歳の学生が弥勒菩薩像に触れた際、右手薬指が折れるという事件が起こった。この事件の動機について、よく言われるのが
「弥勒菩薩像が余りに美しかったので、つい触ってしまった」
というものだが、当の学生は直後の取材に対し
「実物を見た時 "これが本物なのか" と感じた。期待外れだった。金箔が貼ってあると聞いていたが、貼ってなく木目が出ており埃も溜まっていた。監視人がいなかったので悪戯心で触れてしまったが、あの時の心理は今でも説明できない」
などと述べた。なお京都地方検察庁は、この学生を文化財保護法違反の容疑で取り調べたが、起訴猶予処分としている。また折れた指は拾い集めた断片をつないで復元されており、肉眼では折損箇所を判別する事は不可能である。
この事件を切っ掛けに霊宝館のセキュリティは厳重となり、仏像の遥か数メートル前にはロープが張り巡らされたばかりか警備員が常駐し、カメラもビデオも撮影厳禁となったのである。そんなわけで、ホトケ心のないワタクシさえもが
(弥勒菩薩半跏思惟像ってのは、一体どんなんものなんだ・・・?)
と俄然興味が湧いて来ていたとしても、満更おかしくはないだろう。無論、写真などでは何度も見ていたがそれほどピンと来るものはなく、やはり実物を見ない事には話にならない・・・と、決め付けていたのだった。
正直言って、講堂、太子堂はワタクシの目には殺風景なばかりで、大した面白みはなく
(こりゃ、失敗だったか・・・)
などと、幾らか後悔しつつあった。
(まあ、折角来たのだから・・・)
と大枚700円を叩いて、入場する事にしたのだ(通常の寺院では、高いところでも全体の拝観料、或いは入山料で精々500円くらいである事を思えば「霊宝館だけで700円」が、いかに高額かがわかるだろう)
広隆寺に二体ある弥勒菩薩半跏像のうち「宝冠弥勒」と通称される像で、霊宝殿の中央に安置されている。日本に所在する仏教彫刻のうち、もっとも著名なものの1つと思われる。ドイツの哲学者カール・ヤスパースが、この像を激賞した事はよく知られている。
像高は約123センチ、アカマツ材の一木造で右手を頬に軽く当て思索のポーズを示す弥勒像である。制作時期は7世紀とされ、制作地については作風等から朝鮮半島からの渡来像とみるのが一般的だが日本での制作とする見方もあり、なお決着を見ていない。
この像は韓国ソウルの国立中央博物館にある、金銅弥勒菩薩半跏像と全体の様式がよく似ている。同時期の朝鮮の木造仏で同型のものは残っていないが、広隆寺像も元来は金箔で覆われていた事が下腹部等にわずかに残る痕跡から明らかで、制作当初は金銅仏に近い外観であった事が推定される。
第二次世界大戦後まもない1948年、小原二郎は本像内部の内刳り部分から試料を採取し、顕微鏡写真を撮影して分析した結果、本像の用材はアカマツであると結論した。日本の飛鳥時代の木彫仏、伎楽面などの木造彫刻は殆どほとんど例外なく日本特産のクスノキ材であるのに対し、広隆寺像は日本では他に例のないアカマツ材製である点も、本像を朝鮮半島からの渡来像であるとする説の根拠となってきた。
ところが、1968年に毎日新聞刊の『魅惑の仏像』4「弥勒菩薩」の撮影の際、大きく抉られた内繰りの背板にクスノキ材が使用され、さらに背部の衣文もこれに彫刻されている事が判明した。また、アカマツが日本でも自生することから、制作地については今なお不明と言わざるをえない。朝鮮半島からの渡来仏だとする説からは『日本書紀』に記される、推古天皇11年(603年)、聖徳太子から譲り受けた仏像、または推古天皇31年(623年)新羅から将来された仏像のどちらかがこの像に当たるのではないか、と言われている。
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