2004/02/26

波乱の船出(T社極秘プロジェクトpart2)

 その現場の環境は最悪だった。なにせ《世界のT》が、業界内でも極秘理に進める新プロジェクトの拠点だから、人目に触れないような郊外の山の上の立地に、ひっそりと隔離病棟のように建っている、巨大なビルである。セキュリティは厳しく、まず門を入るのに「入館証」が必要で、門衛に見せる。次に、部屋へ入るのには「入室証」をカードリーダーに通さなければならない。そこまではそれほどでもないが、心臓部のサーバ室には入るには、このカードリーダと登録してある指紋の照合があり、また作業をする部屋には各コーナーに監視カメラが取り付けてあるため、360度監視の目から逃れる術はなかった。勿論、作業端末に至るまで総て、Proxyでログが吸い上げられていた事は、言うまでもない。しかも一旦入門した後は、事実上終業まで外へ出ることは出来なかった。

あれだけの巨大なビルにも関わらず食堂が一箇所しかなく、コンビニもないので昼の休憩時間は事実上15-20分くらいしか取れない。その食堂の不味い食事がどうしても口に合わないと、出勤時にコンビニで買ってきたおにぎり等を食べるしかなく、といって食堂以外に食べる場所もないので作業場に座ったままで食べなければならない。そんなわけだから、F社から来ていたリーダーはいつも昼食を摂らず、朝から夜遅くまで何も食べずに頑張ったせいで、半年後に胃をやられた惨状であった。しかも前回も触れたように、現場は関西からの出向組が幅を利かせて、関西弁が飛び交うような「関西村」と化していたから、地元の人間は話に加われず余計に居心地が悪かった。

そんな中で、ワタクシが所属となった「A部門」は、まさにその新規プロジェクトを担うところだったのでハードルは高く、元請け会社でこの部屋の総元締めという触れ込みでちょくちょくと顔を出していたオッサンが、実はTから派遣されていたスパイだったと知るのは、ずっと後の事であった。

 「A部門」のメンバーは自分を含め4人だったが、3名の内の2人(共にUnix経験数年)は大阪からの、残る1人(プログラマーで、Unix経験約1年)は東京からの出向者だ。イメージとは違い、大阪の2人は無口でムッツリタイプだったが、逆に東京のS氏が気取りのない気さくな人で、そのS氏から驚くべき話を訊かされた。それによると、プロジェクトが始まってから僅か1ヶ月の間に、早くも3人がNGを出され交代の憂き目にあったらしい。

最初の1人目(unix経験は殆んどなしのプログラマー)は、元請けの担当者から初日で早々に『NG』の烙印を押されクビとなった。交代で入った2人目(unix経験、少々のWin畑)は、入る早々に「体調が優れないので・・・」と早退許可を貰うと、そのままトンズラを決め込み行方不明に。続く3人目(Unix経験12年)は、夜間勤務の時に「背後に誰かが立ってる・・・」とウワゴトを言い続け、皆から気味悪がられてクビに。unix経験者の3人が揃って「クライアントの要求レベルを充たせず!」という烙印を押され、Tのスパイと元請けから出向してきているunix10ン年というバリバリのSEの目がピカピカと光る中、unixの得意ではないネットワーク畑のにゃべっちには、早くも暗雲垂れ込める波乱の船出となった。

ちなみに、この内幕を話してくれたS氏自身も、夜間対応時に重なって起きたトラブルに巧く対処出来ず、この時点で既にNGを出されていたが、最初に見た時のヤマアラシのようにフサフサと盛り上がっていた髪が、現場でのストレスからか3ヵ月後には、見る見る斑の禿げ頭になってしまっていた。

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