枚方市の北東、淀川左岸に楠葉の地があります。『日本書紀』崇神紀10年9月27日の条に、武安埴彦の軍が敗れて
『其の卒怖ぢ走げて、屎、褌より漏ちたり。乃ち甲を脱きて逃ぐ。得免るまじきことを知りて、叩頭(の)みて曰く「我君(あぎ)」といふ。故、時人、其の甲を脱きし処を號けて伽和羅と曰ふ。褌より屎ちし処を屎褌(くそばかま)と曰ふ。
今、樟葉と謂ふは訛れるなり。又、叩頭(の)みし処を號けて、我君(あぎ)といふ』
とあります。
『崇神天皇に反逆を起こした異母兄・建波邇安王(たけはにやすおう)が戦死し、逃げまどう兵士達が楠葉で漏らしたことから付いた「糞袴=くそばかま」が「楠葉」(くずは)の語源であるという記述である。『古事記』も『久須婆(くすば)の渡り』と記しています。『和名抄』には、河内国交野郡樟葉(久須波)郷が見えます。
この「くすば」は「クズ(崖地)・ハ(端)」の意、と解する説があります。この「くすば」は、マオリ語の「ク・ツパ」、KU-TUPA(ku=silent;tupa=dried
up,barren,flat)、「静かな不毛の原野」の転訛と解します。
ちなみに叩頭の「のむ」または「のみ」、我君の「あぎ」、伽和羅の「かわら」(山城国綴喜郡河原村、現城陽市河原町に比定する説があります)は、マオリ語の「ナウ・マイ」、NAU-MAI(nau=come,go;mai=hither)、「(やつと)ここへ到着した(逃げてきた)」、「ア(ン)ギ」、ANGI(free without hindrance,move freely)、「(よろいを脱いで)自由になった」、「カワ・ラ」、KAWA-RA(kawa=heap;ra=wed)、「岡が連なっている(場所)」の転訛と解します。
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/
また当地には「樟葉宮」というお宮さんがあり、関連Webページによると
《「日本書記」には、6世紀の初め継体天皇が樟葉で即位したと記される。武烈天皇の死により仁徳天皇の子孫が絶えたことで、当時の大和政権の権力者大伴金村(おおとものかなむら)が、越前三国(福井県)から男大迹王(おおどののおおきみ)と称する後の継体天皇を迎え入れ、507年2月の即位より5年間に渡り都を営んだ。樟葉宮の正式な場所は不明であるが、交野天神社(かたのあまつのみやのやしろ)の境内が推定地とされ、顕彰碑が建っている。
昭和46年(1971)府の史跡に指定され、付近一帯の原生林は「樟葉宮跡の杜」として枚方八景にも選ばれており、古代からの風情をたたえている》と記述されています。
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