2004/02/05

ブラームス 交響曲第1番(第2楽章)




 《着想から完成まで、21年を費やして作曲。集中して取り組んだのは、最後の5年間。1876年に完成したが、初演後も種々の改定を加えた。ブラームスは、22歳の時にロベルト・シューマンの『マンフレッド序曲』を聴き、自分も交響曲を作ろうと思い立った。しかし、ブラームスはベートーヴェンを尊敬しており、自らが交響曲を書こうと思っていても

「ベートーヴェンを超えるほどのものでなくてはならない」

と考えていた。

このためブラームスは推敲に推敲を重ね、最初の交響曲の完成までに20年もの年月を要した。もっとも20年間ずっと推敲を重ねていたのではなく、何度も一から書き直すような過程があったと考えられる。この過程で破棄された旋律は、ピアノ協奏曲第1番の第2楽章や『ドイツ・レクイエム』に転用されたという。1862年になると第1楽章の原型と見られるものが現れており、直接の起源はこの付近の時期に遡ることができる、と考えられている。

最終的に交響曲がひと通りの完成を見たのは、この時点から14年後の1876年で既にブラームスは43歳になっていた。これだけの時間を要したのは、必ずしもブラームスが遅筆であったというわけではない(実際、この後すぐに第2番を書き上げている)

当時はワーグナーやリストといった、前衛的な作曲家は既に交響曲という古臭い形式から脱却し、それぞれが楽劇や交響詩といった新たなジャンルを開拓していた時代であった。また交響曲のジャンルの中においても、ベートーヴェンの死後すぐにベルリオーズは『幻想交響曲』を発表していた。しかしながら聴衆の中には、このような前衛的な運動にはついていけない者も多く、ベートーヴェンの交響曲を正統的に次ぐ新しい作品が待ち望まれていた

そのような作品として、ロベルト・シューマンは4曲の交響曲を発表したが、それらも必ずしも聴衆の期待に応えうるような作品にはならなかった。古典的な交響曲を待望するこのような聴衆の存在が、交響曲を完璧に仕上げなければならないという使命感をブラームスに負わせ、ブラームスもそれに誠実に応えたため、このような時間を要する結果となったのである。

2楽章は、第14楽章に比べ聴く機会が少ないが、ブラームスらしい孤独で侘しい味わいがジンワリと滲み出ていて、とても好きだ。この曲を作曲したのは、ブラームスが20代~30代の頃のはずだが、人生を知り尽くした枯淡の境地を思わせる深い趣が素晴らしい
※Wikipedia引用

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