金堂(国宝)
金堂は東寺の中心堂宇で、諸堂塔のうち最も早く建設が始められ、東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)までには完成していたと推定される。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆で焼失し、その後1世紀近く再建されなかった。現存の建物は慶長8年(1603年)、豊臣秀頼の寄進によって再建したもので、奉行として片桐且元が任にあたった。入母屋造本瓦葺きで、外観からは二重に見えるが一重裳階(もこし)付きである。
建築様式は和様と大仏様(天竺様)が併用され、貫や挿肘木を多用して高い天井を支える点に大仏様の特色が見られる。内部は広大な空間の中に本尊の薬師如来坐像と日光菩薩、月光菩薩の両脇侍像が安置されている。
木造薬師如来及び両脇侍像(重要文化財)
金堂本尊。中尊の像高2.88メートル、台座と光背を含めた総高は10メートルに達する巨像で、中尊の光背には七仏薬師像を配している。台座の懸裳の下には薬師如来の眷属である十二神将像が配されている。仏師康正の作で、日本の仏教彫刻衰退期である桃山時代における佳作である。薬師如来像が左手に薬壺を持たず、坐法が左脚を上にする降魔坐である点、台座を古風な裳懸座とする点などに復古的要素が伺える。
講堂(重要文化財)
金堂の背後(北)に建つ。東寺が空海に下賜された弘仁14年(823年)にはまだ建立されておらず、天長2年(825年)空海により着工、承和2年(835年)頃完成した。当初の堂は文明18年(1486年)の土一揆による火災で焼失し、室町時代の延徳3年(1491年)に再建されたのが現存する講堂である。単層入母屋造で純和様である。金堂が顕教系の薬師如来を本尊とするのに対し、講堂には大日如来を中心とした密教尊を安置する。すなわち、須弥壇中央には大日如来を中心とする五体の如来像(五仏、五智如来)、向かって右(東方)には金剛波羅密多菩薩を中心とする五体の菩薩像(五大菩薩)、向かって左(西方)には不動明王を中心とした五体の明王像(五大明王)が安置されている。また、須弥壇の東西端には、それぞれ梵天・帝釈天像、須弥壇の四隅には四天王像が安置されている。
出典http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu_san/hyaku.htm
以上、全部で21体の彫像が整然と安置され、羯磨曼荼羅(立体曼荼羅)を構成している。これら諸仏は、日本最古の本格的な密教彫像であり、空海没後の承和6年(839年)に開眼供養が行われているが(『続日本後紀』)、全体の構想は空海によるものとされる。21体の仏像のうち、五仏(重要文化財に指定)のすべてと五大菩薩の中尊像は室町時代から江戸時代の補作であるが、残りの15体は講堂創建時の像で、平安時代前期を代表する密教彫像として国宝に指定されている。これら21体の仏像の表す具体的意味について、かつては仁王経に基づく羯磨曼荼羅であると説明され、仁王経と金剛界法とを融合したものとも説かれるが、空海の真意が何であったかについてはさまざまな解釈があり、定説をみない。
出典http://www5a.biglobe.ne.jp/~kazu_san/hyaku.htm
お目当ての「立体曼荼羅」は、年季の入った朱塗りの剥げた講堂にあった。国宝クラスの仏像はゴロゴロと転がっているような京都の中でも、代表的な作品と言って過言ではない。実物は写真のように綺麗ではないが、やはり生で見る迫力は段違いだ。
五仏坐像(重要文化財)
金剛界大日如来を中心とし、周囲に宝生如来、阿弥陀如来、不空成就如来、阿閦如来(あしゅくにょらい)を配す。大日如来像は明応6年(1497年)、仏師康珍の作。宝生如来、不空成就如来、阿閦如来の各像は江戸時代の作で、阿弥陀如来像は頭部のみ平安時代の古像のものを流用し、体部は江戸時代の作である。
五大菩薩坐像(国宝)
金剛波羅蜜多菩薩を中心に、周囲に金剛宝菩薩、金剛法菩薩、金剛業(ごう)菩薩、金剛薩埵(さった)の各像を配す。中尊の金剛波羅蜜多菩薩像は江戸時代の作で、国宝の指定外である。他の4体は後世の補修が多いが、当初像である。一木造に乾漆を併用し、作風・技法ともに奈良時代風が強い。
五大明王像(国宝)
不動明王像を中心に、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王、金剛夜叉明王像を配す。東寺御影堂の不動明王像とともに、明王像としては日本最古の作例である。
梵天坐像・帝釈天半跏像(国宝)
梵天像は法隆寺などにある奈良時代の像と異なり、4面4臂の密教像であり、4羽の鵞鳥が支える蓮華座上に坐す。帝釈天像は甲を着け、白象に乗り、左脚を踏み下げる。両像の台座、帝釈天像の頭部などは後補である。
四天王立像(国宝)
4体のうち持国天像は表情に怒りをあらわにし、激しい動きを見せるが、他の3体の表現は抑制されている。多聞天像は後補部分が多く、作風も他の像と異なっている。
食堂(じきどう)
講堂の後方、境内の北寄りに建つ。初代の食堂は空海没後の9世紀末から10世紀初め頃にかけて完成したと推定されるが、文禄5年(1596年)の地震で倒壊。2世紀以上後の寛政12年(1800年)に、ようやく再建工事が始められた。この江戸時代再建の食堂は昭和5年(1930年)に火災で焼失し、現在の建物はその後の再建で、昭和9年(1934年)に完成したものである。旧本尊の千手観音立像はこの時の火災で焼損したが、昭和40年(1965年)から修理が実施され、現在は寺内の宝物館に安置されている。現在の食堂には、明珍恒男作の十一面観音像が本尊として安置されている。
立体曼荼羅を充分に堪能した後は、再び境内に出て瓢箪池をグルリと廻り五重塔を見上げる。日本一高い全長57メートルという高さばかりが話題となるが、黒っぽい屋根に青空に映え山のようにどっしりとした全体の重量感を伴って鎮座している眺めは、実に素晴らしい。日本が世界に誇る「木造建築の美」を表していると言っても過言ではないだろうこの素晴らしい五重塔が、これほど駅から近い立地にあるのは、他の都市では考え難いだろう。
五重塔(国宝)
東寺のというよりは京都のシンボルとなっている塔である。高さ54.8メートルで木造塔としては日本一の高さを誇る。天長3年(826年)空海により、創建着手にはじまるが、実際の創建は空海没後の9世紀末であった。雷火や不審火で4回焼失しており、現在の塔は5代目で、寛永21年(1644年)、徳川家光の寄進で建てられたものである。初重内部の壁や柱には両界曼荼羅や真言八祖像を描き、須弥壇には心柱を中心にして金剛界四仏像と八大菩薩像を安置する。真言密教の中心尊である大日如来の像はここにはなく、心柱を大日如来とみなしている。江戸時代初期の作風を伝える。
出典 Wikipedia
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