2004/01/30

妙心寺(夏の京part11)

2日目はJR山陰線で花園まで行き、まずは蓮で有名な「法金剛院」から廻る予定だったが、偶然目に入った今宮神社を通ってから「法金剛院」へ。

<法金剛院は、京都市右京区花園にある律宗の寺院である。山号を五位山と称する。本尊は阿弥陀如来、開基(創立者)は待賢門院とされる。多くの古仏を伝え、平安時代の浄土式庭園を残す寺として知られる。花の寺としても知られているが、とりわけ蓮の名所として名高い

法金剛院は、古くから名勝の地として知られる双ヶ丘(ならびがおか)の東麓にある。付近には妙心寺、仁和寺などの著名寺院や史跡も多い。

この地には平安初期の貴族・清原夏野(782 - 837年)の山荘があり、夏野の死後、山荘を寺に改めたものが当寺の前身であるという。20年ほど後の天安2年(858年)、文徳天皇の発願で伽藍を建立し、天安寺と称した。その後、寺運は衰えたようだが、3世紀ほど経た平安末期の大治5年(1130年)、待賢門院(1101 - 1145年)により再興された。 待賢門院は藤原氏の出身で、鳥羽天皇中宮であり、崇徳天皇、後白河天皇の母である。

最盛期の法金剛院には九体阿弥陀堂、丈六阿弥陀堂、待賢門院の御所などが立ち並んでいたというが、度重なる災害により、壮観だった当時の面影はない。なお、平安末期の浄土式庭園の遺構が1968年に発掘・復元されている。現存する阿弥陀如来像は像高2.2メートルを超える大作で、丈六阿弥陀堂の本尊と推定されている>

 この日のメーンは妙心寺と広隆寺だったので、法金剛院はあくまでおまけという位置付けだったが、これが思ったよりも素晴らしい庭園であった。自慢の蓮の花は、かなり萎んでしまっていたのが殆どだったとはいえ、待賢門院が極楽浄土として造園させた「池泉廻遊式浄土庭園」は、地表に一部露出していた石組みを掘り下げて現われ、4メートルもある見事な滝の石組みの「青女の滝」など、見応えは充分である。

 なにせ、この地域には金閣寺、龍安寺、御室仁和寺、妙心寺、広隆寺といった京都を代表するような錚々たる大寺院が固まっているだけに、地味な扱いになるのも仕方がないといえるが、京都以外の都道府県にあったならば充分に県を代表するような寺院といっても、まったくおかしくはない規模だ。
 京都などの大寺院でよく見られる「塔頭」といって、大寺院の敷地の中にある小寺院や別坊(いわゆる脇寺)があるのは《禅宗で大寺の高僧の死後、弟子がその徳を慕って墓の塔の頭(ほとり)に構えた寮舎》(YAHOO!国語辞典より)という謂われから来ているのかもしれない。

 塔頭寺院を多く抱えている寺院は珍しくないが、最も多い47もの塔頭を所有しているのが「妙心寺」である。

<妙心寺は、京都市右京区花園にある臨済宗妙心寺派大本山の寺院。山号を正法山と称する。本尊は釈迦如来、開基(創立者)は花園法皇、開山(初代住職)は関山慧玄(かんざんえげん、無相大師)である。日本にある臨済宗寺院約6,000か寺のうち、約3,500か寺を妙心寺派で占める。近世に再建された三門、仏殿、法堂(はっとう)などの中心伽藍の周囲には多くの塔頭寺院(たっちゅうじいん、子院)が建ち並び、一大寺院群を形成している。平安京範囲内で北西の12町を占め自然も多いため、京都市民からは西の御所と呼ばれ親しまれている。

京都の禅寺は、五山十刹(ござんじっさつ)に代表される、室町幕府の庇護と統制下にあった一派と、それとは一線を画す在野の寺院とがあった。前者を「禅林」または「叢林」(そうりん)、後者を「林下」(りんか)といった。妙心寺は、大徳寺とともに、修行を重んじる厳しい禅風を特色とする「林下」の代表的寺院である。

平安京の北西部を占める妙心寺の地には、花園上皇の離宮・萩原殿があった。花園上皇は、建武2年(1335年)落飾(剃髪して仏門に入ること)して法皇となり、萩原殿を禅寺に改めることを発願した。法皇の禅の上での師は大徳寺開山の宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう、大燈国師)であった。宗峰は建武4年(1337年)12月没するが、臨終間近の宗峰に花園法皇が「師の亡き後、自分は誰に法を問えばよいか」と尋ねたところ、宗峰は高弟の関山慧玄(かんざんえげん、1277-1360)を推挙した。

その頃、美濃(岐阜県)の山奥で修行に明け暮れていた関山は、都に戻ることを渋っていたが、師僧・宗峰の遺命と花園法皇の院宣があっては辞去するわけにはいかず、暦応5/康永元年(1342年)、妙心寺の開山となった。なお、「正法山妙心寺」の山号寺号は宗峰が命名したもので、釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」(「最高の悟り」というほどの意味)という句から取ったものである。

関山慧玄の禅風は厳格で、その生活は質素をきわめたという。関山には他の高僧のような「語録」はなく、生前に描かれた肖像もなく、遺筆も弟子の授翁宗弼(じゅおうそうひつ)に書き与えた印可状(師匠の法を受け継いだ証明書)のほか殆ど残されていない。

妙心寺6世住持の拙堂宗朴(せつどうそうぼく)は、足利氏に反旗をひるがえした大内義弘と関係が深かったため、将軍足利義満の怒りを買った。応永6年(1399年)、義満は妙心寺の寺領を没収し、拙堂宗朴は大内義弘に連座して青蓮院に幽閉の身となった。

妙心寺は応仁の乱(1467-1477年)で伽藍を焼失したが、中興の祖である雪江宗深(せっこうそうしん、1408-1486)の尽力により復興。細川家や豊臣家などの有力者の援護を得て、近世には大いに栄えた。

伽藍
法堂、座禅が行われている勅使門:慶長15年(1610年)建立。

三門:慶長4年(1599年)建立。五間三戸(正面の柱間5間のうち中央3間が通路)の二重門(2階建門)である。上層には円通大士(観音)と十六羅漢像を安置する。

仏殿:他の諸堂より新しく、文政10年(1827年)の建立。入母屋造、一重裳階(もこし)付き。

法堂(はっとう): 明暦2年(1656年)の建立。入母屋造、一重裳階付き。

大方丈:承応3年(1654年)の建立。障壁画は南側3室は狩野探幽、北側3室は狩野洞雲の筆。

庫裏:承応2年(1653年)の建立。

他に小方丈、浴室、経蔵などがある(以上の建造物は、すべて重要文化財

退蔵院:妙心寺の塔頭は48箇院に及び、うち山内塔頭38箇院、境外塔頭は石庭で著名な龍安寺を含め10箇院を数える。

国宝
梵鐘:戊戌(つちのえいぬ)年、つまり西暦698年にあたる年の銘文がある、日本最古の紀年銘鐘。九州方面で制作されたものである。妙心寺には2個所(法堂の北西と仏殿の南東)あるが、前者の鐘楼にかかっていたもの(現在は法堂に移動)。音色が雅楽の黄鐘調(おうじきちょう)に合うことから古来「黄鐘調の鐘」として著名で、『徒然草』にもこの鐘のことが言及されている。



大燈国師墨蹟:宗峰妙超(大燈国師)が、弟子の関山慧玄(妙心寺開山)に「関山」の号を与えた時に書き与えたもの。

大燈国師墨蹟:宗峰妙超が関山慧玄に与えた「印可状」(自分の法を継いだというお墨付き)である。
出典 Wikipedia


大きな三門を入ると仏殿、法堂、大方丈などの七堂伽藍が一直線に並んでいるのは迫力満点だ。これらの大伽藍にため息をついて暫し見とれた後、受付で拝観料を払い法堂に入る。


 見どころは狩野探幽作の天井画「八方にらみの龍」と、日本最古の銘をもつ黄鐘調[おうじきちょう]の梵鐘(国宝)だ。

 《黄鐘調の鐘として有名な銅鐘は、もと境内の鐘楼に置かれていたが、この鐘は『徒然草』に「黄鐘調の鐘」として知られた名鐘で、その音色が雅楽十二律の黄鐘調に合うところから名づけられた。高さ1.m、口径86cmの青銅製で、我が国最古の鐘である。近年、破損の恐れがあるため法堂内に移された》

 といった説明がついていた。

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