2004/01/06

醍醐の花見(世紀末の花見part2)


 そして地下鉄で醍醐駅へと移動し、いよいよこの日お目当ての『醍醐寺』へ。今更解説の必要もないくらい有名な寺院である。

<醍醐山全山を寺域とする京都屈指の大規模寺院で、真言宗醍醐派の総本山。 伽藍は山上の上醍醐と、山下の下醍醐に分かれ、80余の堂塔が立つ

874年(貞観16)に修験道中興の祖である理源大師[りげんたいし]が開き、豊臣秀吉が再興した。国宝、重要文化財などの指定文化財を多数擁し、世界文化遺産にも登録されている。秀吉が1598年(慶長3)に、花見の宴を催した。これが名高い「醍醐の花見」だ>
出典Wikipedia
伽藍は山上の上醍醐と山下の下醍醐に分かれ、80余の堂塔が聳え立つという図抜けたスケールは群を抜く。そして『醍醐寺』といえば、なんといっても秀吉の「醍醐の花見」で有名な桜である。秀吉が花見を楽しむために家臣に命じさせ、奈良・吉野山のソメイヨシノを大量に移して来たと言われるのは国宝庭園三宝院』の方らしいが、花見と言えば「桜の馬場」と称される境内だ。仁王門を入ったところから、広い境内一杯と言う感じでソメイヨシノが咲き誇るのは、圧巻である。「桜の馬場」に10年以上ぶりに足を踏み入れ、学生時代以来久しぶりの「醍醐の花見」を堪能した。


「醍醐の花見」を充分に堪能した後は、伽藍を見て歩く。見どころが沢山ある中でも、千年以上も前に完成された五重塔(国宝)はこれまで奈良・室生寺五重塔に次いで「日本で2番目に古い五重塔」と記されていたが、数年前の台風で倒損壊した室生寺の全面改修に伴い、今は「日本で最も古い(まま残っている)五重塔」に繰り上がった。

<醍醐天皇のご冥福を祈るために朱雀天皇が起工、村上天皇の天歴5年(951年)に完成した。京都府下最古の建造物で、内部の壁画は日本密教絵画の源流をなすものといわれている>

金堂など他の建築もそうだが、見るからに歴史を感じさせるような重厚かつ、鄙びた佇まいが素晴らしい。

 某有名大学教授が『エジプトのピラミッドが凄い凄いと言われるが、あのような石で出来たものよりは、木造建築でありながら千年以上もの風雨に晒されて、なお微動だにせずずっと変わらずに建ち続けている日本の寺社建築こそは、世界に誇るべきものである・・・云々』というような事を言っていたが、この醍醐寺五重塔こそはまさにナニが降りかかってきてもビクともしなさそうに、ドッシリとした頼もしさを感じたものである。

苔生したような年季物特有の建築群に、桜の薄いピンクがかった色合いがこれほど生える背景は、ないと言っていいだろう。山を上がるような感じで、これらの伽藍群を見てグルリと一蹴し再び山を降り、いよいよお目当ての「特別名勝・三宝院」へと足を踏み入れる時は、少し緊張した。

<醍醐寺三宝院は、永久三年(1115)醍醐寺第十四世座主勝覚僧正の創建。 その後、座主の住房とされていた金剛輪院に名称が移され、現在に至っている。現在の三宝院の門を入ると、正面に大玄関が見えている。この大玄関と右に続く葵之間・秋草之間・勅使之間、奥宸殿東の純浄観及び弥勒堂は、重要文化財に指定、庭園全体を眺める事の出来る表書院と唐門は、国宝に指定されている。

特別史跡、特別名勝に指定されている庭園は、慶長三年(1598)豊臣秀吉が「醍醐の花見」に際し、庭奉行竹田梅松軒等に命じて築庭させた。名石藤戸石(千石石)は、聚楽第より運ばれた。この庭園には滝、島、橋があり、池泉回遊式庭園とも言える。



この庭は回遊式でありながら、建物の中から眺める形になっている。奥行きが比較的、狭いのはそのため。三宝院は、桃山時代の豪華な襖絵や障壁画で飾られた葵の間、秋草の間、勅使の間(ともに重要文化財)に続き表書院(国宝)がある>
出典Wikipedia

期待はしていたものの(これほど素晴らしい庭園が、あるものか・・・)とため息が出るほどの美しさで、天龍寺・曹源池庭園を始めこれまで数多く見てきた素晴らしい庭園と比しても、間違いなく五本の指に数え上げられるような名作に挙げられよう。

ビデオカメラ撮影のコレクションをしているワタクシとして、惜しむらくはこの素敵な庭園内が全面撮影禁止になっていた事に加え、元々が池泉回遊式庭園でありながら、一般の拝観は鑑賞式のように各部屋から眺めるだけしか許されていなかったのは、実に残念である。

精々脳裏にしっかりと焼き付けておかんと充分に堪能しておいて、再び美しい花びらに包まれて桜の馬場を歩く。桜の馬場を突っ切って外に出ると、一際目を惹く大きな枝垂れの木が道路の方にまではみ出していて人々の目を惹いていたが、驚いた事にこの醍醐寺のどこ桜よりも大きな木は、寺院に隣接している個人宅のものであった。

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