リゴレットの家に忍び込んだ公爵が歌う。
当時フランスでは出版の自由は保障されていたから、ユーゴーのこの戯曲も(上演禁止の経緯と、それに対する抗議文を「前文」として挿入して)出版はなされ、オーストリア帝国統治下のヴェネツィアでもそれは入手可能だったが、現段階で上演禁止リストに載っている戯曲がオペラにできるだろうか、とのヴェルディの懸念はもっともなものだった。この段階では、ピアーヴェは有力者の誰かから何らかの好感触を得たものとみえ、1850年6月には2人は戯曲をどのようにオペラ化していくかの相談を行っている。
ヴェルディの希望は、ユーゴーの原作にできるだけ忠実に従うというもので、ピアーヴェはその通りに作業を進めている。ただし、彼らも『王は愉しむ』という刺激的な題名は許可されないだろうと考えていたようで、タイトルは『サン=ヴァリエの呪い(La Maledizione
di Saint-Vallier)』、あるいはもっと単純に『呪い』が有力候補となり、主人公の道化師は原作でのトリブレのイタリア語『トゥリボレット(Triboletto)』となっていた。
ところが8月になり、ちょうどヴェルディがピアーヴェをブッセートの自宅に招いて集中作業を行っている頃に、前途に暗雲が立ち込めてきた。フェニーチェ座の支配人マルザーリが『呪い』に関する懸念を知らせてきたのだ。この時、ヴェルディはピアーヴェをすぐにヴェネツィアに返し、政治工作を続けるよう指示している。11月にはいよいよ市の公安当局が、台本のコピーを提出すべしとの公式要請を行ってきた。10月に、ほぼ完成していた台本のコピーはすぐに当局に送付されたが、上演許可証は発行されなかった。それどころか、12月にはヴェネツィア総督は公式の上演禁止通達を発行。『呪い』の、このままの形での上演の可能性は完全に潰えた。
※Wikipedia引用
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