2004/01/30

信楽のルーツ「紫香楽宮」



 一昨年の事ですが、奈良の「長谷寺」に牡丹を観に行った知人が「長谷寺」近くに一軒だけあったという酒屋で「こもりくの里」という地酒を、お土産に買って来てくれました。

この酒が旨かった事は言うまでもありませんが、これの入っていたのが武骨な「信楽焼」の風情ある徳利で、すっかり信楽焼のファンになってしまいました。  

信楽町には、まだ一度も足を踏み入れた事はありませんが、考えてみれば「しがらき」という名前は結構インパクトがありますし、そもそも「信楽」の字面からは読めない難読地名です。

では、この「しがらき」とは、なんなのか?

740年(天平12年)の藤原広嗣の乱ののち、聖武天皇は恭仁京(現在の京都府木津川市加茂地区)に移り、742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村に離宮を造営して、しばしば行幸した。

これが紫香楽宮である。

743年(天平15年)10月、天皇は紫香楽の地に盧舎那仏を造営することを発願した。

これは恭仁京を唐の洛陽に見立て、その洛陽と関係の深い龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽の地で表現しようとしたものとみられる。

12月には恭仁宮の造営を中止して、紫香楽宮の造営が更に進められた。

紫香楽」の地名表記については、正倉院文書には「信楽宮」としたものが3件ある一方で「紫香楽」と表記したものが全く無いため、続日本紀が編纂された時の修辞の可能性が考えられる。

また744年(天平16年)を境に、宮名が「信楽宮」(続日本紀では「紫香楽宮」)から「甲賀宮」へと変化しており、これは単なる離宮から甲賀寺と一体の都とされたことにより宮名が改められたか、離宮の紫香楽宮とは別に宮町遺跡の地に甲賀宮が造営されたものとも言われる≫
Wikipedia引用

《[しがらき]の由来は、天平14年(742年)に聖武天皇が離宮を造営され[紫香楽宮]という美しい漢字の名をつけられたのですが、その[しがらき]という呼び方は遠く奈良時代に、この地が良い木材を産出するところ=山深く木々が繁ったところという意味、繁る木が「しがらき」の地名になった、と言われています》

信楽は元々「州処牧(シカマキ)」で「州処(シカ)」が滋賀の語源、牧は古代の農林物産の供給地のことを言うらしい。

現在も、信楽の大戸川下流に「」という地名があります。

これに対し上流の「スカ(砂州)」をスカマキと呼び、時代を経て音韻変化した地名がシガマキとなり、さらに聖武天皇が都を築かれることになり新しい都(アラ新+キ処)と定め、シカアラキと呼ばれるようになったのが「シガラキ」の語源との事です。

要するに

シカマキ⇒スカマキ⇒シガマキ⇒シカアラキ⇒シガラキ

と変化したようです。

また、万葉仮名で信楽の事を紫香楽と書きますが「紫雲たなびく香ぐわしい楽土」で、物凄く美しい地を想像させます。

そして現在の信楽は、仏典に一心に帰依する意の「シンギョウ(信楽)」を当てた字らしいです。

 まず滋賀県の滋賀は、天智天皇の「ささ波や志賀の都は 荒れにしを昔ながらの山桜かな」の歌の中の「しが」を別の漢字で表記し、同県志賀町はそのままを戴いているわけで、天智天皇の時代には既に確立していた地名である。

この「しが」とは、何を意味するのだろうか?

地名辞典の中には「意味不明」とするところもあるが「比良山」の「比良」が最もよく知られている。

この辺りにアイヌ語や朝鮮語の地名が残っており、これに由来するのではないかという説がある。

同じ滋賀県に焼物でよく知られている「信楽(しがらき=古くは「紫香楽」とも表記した)」があるが「しがらき」の「しが」も同じルーツを持っているのか、という興味が湧いてくる。

ここは違うようで、動詞「シガラム」の連用形に、接尾語である「」がついたもので、つまり河川が柵堰で堰き止められてできたようなちょっとした高地、あるいは山間の盆地を意味するという説が有力である。

戦国時代頃までは、読みを同じくする「当て字」が「常識?」でした。

史料を踏まえて言うならば、例えば「長門国」は奈良時代や平安時代まで「穴門国(あなとのくに)」と書かれています。

その前後の記載内容から「長門国」(現:山口県)であることがわかります。

また「大倭国」は、後に「大和国」(現:奈良県)と書かれるようになりました。

さらに「埼玉(さきたま)古墳群」が古くから発見されており、その一帯を「埼玉(さきたま)」という地名で呼んでいました。

それが、今日の「埼玉県」の由来です。

人名でも、かの有名な「秀吉」という名前でさえ、文献には「日出吉」と書かれたものもあります。

と、言うように、地名というものは自然や都があったり古墳があったりして名付けられ、それが代々受け継がれて多少は「文字の違い」があっても、関連付けには大いに役立ちます。

古文書などから紫香楽宮の出展を見つけ、信楽町が誕生し滋賀県へと名前が発展していったものと考えます。

あるいは紫香楽宮と名乗る以前から、すでにその一帯を「しがらき」と呼んでおり、そこで出土した遺跡を古文書に照らし合わせて「紫香楽宮」と呼ぶようになったのかもしれません。

●ポリネシア語による解釈
信楽町は滋賀県最南端、甲賀郡に属し瀬田川の支流大戸(だいど)川の上流域で、標高500600メートルの花崗岩の山地に囲まれた内陸盆地です。

古代には甲賀牧が置かれ、木津川の河谷を経由して大和との関係が深く、町の北東部には聖武天皇が造営した、紫香楽宮(しがらきのみや)跡があります。  また、信楽焼の産地として有名です。

この「しがらき」は

(1)
「シ(接頭語)・カラ(高地、涸れ地)・キ(場所)の意
(2)「シガ(其の所)・アラ(荒)・キ(場所)」の意
(3)「新羅人の渡来地」
(4)「繁木(しげりき)」または「柵(しがらみ)」から  

とする説があります。

この「しがらき」は、マオリ語の「チ(ン)ガ・ラ(ン)ギ」、TINGA-RANGI(tinga=likely;rangi=sky,heaven)、「空のような(天上に近いところの場所)」の転訛と解します。
http://www.iris.dti.ne.jp/~muken/ 引用

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