2004/01/24

東寺に開眼?(夏の京part5)


 こうして東山・嵐山を中心に、観光名所と言われるところをかなり見尽くして

 (ボチボチ、行くところがなくなって来たかな・・・)

 と思い込んでいたのは、まことに「灯台下暗し」と言うべきであった。

 観光の基点となる京都駅(八条)のお膝元とも言うべき、九条にある『東寺』を思い出したのである。と言っても決して、あの有名な観光名所を忘れていたわけではなく、日本一高いと言われる五重塔は京都駅周辺やホテルの窓辺からは何度も目にしていた。

 かつて定宿にしていたホテルの最上階にあるランドリーコーナーの窓から、ライトアップで夜空に堂々と浮かび上がっている、あの塔を見る度に

 (是非一度は、生で見なければ・・・)

 と思いつつも

 (近いから『東寺』には、いつでも行ける・・・)

 という気持ちが邪魔して、なかなか足が向かなかったのだった。

 近いという事もあるが、これまで『東寺』に足が向かなかったのは、プライオリティで「日本庭園」を最優先にしていたため、という事情もあった。庭園のない『東寺』(実際にはあるらしいが、少なくとも観光向けに一般開放しているものはない)だけに、それまでは優先度はそれほど高くはなかったものの、写真をメインにした雑誌で「立体曼荼羅」を見てからは最早、居ても立ってもいられなくなった。

 この写真集では、京都寺社の国宝・重文を中心に非常に美しい画像をふんだんに載せていたが『三十三間堂』の「千体観音」とともに

 (やはり是非とも、この目で見なくては!)

 と、矢も盾もたまらなくなっていたのである。

 ところで『東寺』と言うのは通称であり、正式な寺名は『教王護国寺』と言うのは、意外と知られていないだろう。

 《平安建都の際、鎮護国家のため都城の南玄関、羅城門の東に作られた。空海は、ここを真言密教の根本道場と定め「教王護国寺」と称した》
 というのが、その名の由来である(以下、文中ではわかりやすく『東寺』に統一)

 ワタクシの生まれ故郷である愛知県に犬山市という観光都市があり、かつてここの市役所観光科へ案内を請うた時には

 《まず犬山市には、国宝が二点あります・・・》

 と誇らしげに話していたが、この『東寺』だけでナント

 《国宝2678点。重文は5323592点》

 というから恐ろしい。金堂や大師堂といった建造物や仏像ばかりではなく、書画においても美術・書道史上貴重な遺産が多いのは、空海の遺品や唐からの招来物、鎌倉時代以降の施入品など平安から江戸時代まで、弘法大師への信仰の証とも言われる。

<東寺は、京都市南区九条町にある東寺真言宗総本山の寺院。山号は八幡山。本尊は薬師如来。

東寺は弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として栄えた。中世以降の東寺は、弘法大師に対する信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として庶民の信仰を集めるようになり、21世紀の今日も京都の代表的な名所として存続している。昭和9年(1934年)に国史跡に指定、平成6年(1994年)12月には「古都京都の文化財」の一部として世界遺産に登録された。

東寺の正式名として「金光明四天王教王護国寺秘密伝法院」と「弥勒八幡山総持普賢院」の2つの名称がある。宗教法人としての公称は「教王護国寺」(きょうおうごこくじ)、詳名は金光明四天王教王護国寺秘密伝法院である。

 

この寺には「東寺」および「教王護国寺」という2つの名称があり、百科事典等でも東寺を見出し語とするものと教王護国寺を見出し語とするものがある。教王とは王を教化するとの意味であり、教王護国寺という名称には、国家鎮護の密教寺院という意味合いが込められている。宗教法人としての公称は教王護国寺であり、たとえば、五重塔の国宝指定官報告示の際の指定名称は「教王護国寺五重塔」となっている。そうした観点からは、近代以降の法人名としては教王護国寺が正式名称であるといえる。ただし、東寺という名称も単なる通称・俗称ではなく、創建当時から使用されてきた歴史的名称である。現代においても、南大門前の石柱には「真言宗総本山 東寺」とあり、南大門、北大門、慶賀門などに掲げられた寺名入りの提灯には東寺とあり、宝物館の名称を東寺宝物館とするなど、寺側でも通常は東寺の呼称を使用している。

平安時代以降近世まで、公式の文書・記録等には原則として「東寺」という表記が用いられ、それが正式名称であり「教王護国寺」という呼称は特殊な場合以外には用いられなかった。教王護国寺という名称は平安時代の記録類には一切見えず、正式の文書におけるこの寺号の初出は仁治元年(1240年)である。後宇多天皇宸翰の国宝「東寺興隆条々事書」(延慶8年=1308年)、後宇多天皇宸翰「庄園敷地施入状」、豊臣秀吉が2,030石の知行を認めた天正19年(1591年)の朱印状など、寺の歴史に関わる最重要文書にも明確に東寺と表記されている。

以下、「東寺」の表記を用いる。

8世紀末、平安京の正門にあたる羅城門の東西に「東寺」と「西寺」(さいじ)という2つの寺院の建立が計画された。これら2つの寺院は、それぞれ平安京の左京と右京を守る王城鎮護の寺、さらには東国と西国とを守る国家鎮護の寺という意味合いを持った官立寺院であった。

南北朝時代に成立した東寺の記録書『東宝記』によれば、東寺は平安京遷都後まもない延暦15年(796年)、藤原伊勢人という人物が造寺長官(建設工事責任者)となって建立したという。藤原伊勢人という人物については、公式の史書や系譜にはその名が見えないことから、実在を疑問視する向きもあるが、東寺では古くからこの796年を創建の年としている。それから20数年後の弘仁14年(823年)、真言宗の宗祖である弘法大師空海は、嵯峨天皇から東寺を賜った。この時から東寺は国家鎮護の寺院であるとともに、真言密教の根本道場となった。

東寺は平安後期には一時期衰退するが、鎌倉時代からは弘法大師信仰の高まりとともに「お大師様の寺」として、皇族から庶民まで広く信仰を集めるようになる。中でも空海に深く帰依したのは後白河法皇の皇女である宣陽門院(1181 - 1252年)であった。宣陽門院は霊夢のお告げに従い、東寺に莫大な荘園を寄進した。また、「生身供」(しょうじんく、空海が今も生きているがごとく、毎朝食事を捧げる儀式)や「御影供」(みえく、毎月21日の空海の命日に供養を行う)などの儀式を創始したのも宣陽門院であった。空海(弘法大師)が今も生きているがごとく朝食を捧げる「生身供」の儀式は、21世紀の今日も毎日早朝6時から東寺の西院御影堂で行われており、善男善女が参列している。また、毎月21日の御影供の日には、東寺境内に骨董市が立ち「弘法市」「弘法さん」として親しまれている。

中世以後の東寺は、後宇多天皇・後醍醐天皇・足利尊氏など多くの貴顕や為政者の援助を受けて栄えた。文明18年(1486年)の火災で主要堂塔のほとんどを失うが、豊臣家・徳川家などの援助により、金堂・五重塔などが再建されている。何度かの火災を経て、東寺には創建当時の建物は残っていないが、南大門・金堂・講堂・食堂(じきどう)が南から北へ一直線に整然と並ぶ伽藍配置や、各建物の規模は平安時代のままである。
出典 Wikipedia

0 件のコメント:

コメントを投稿